優遇され過ぎた農政

優遇し過ぎた農政

私は昭和8年9月19日生まれで、幼少時代を戦時中に過ごした。

国民学校時代の思い出は、「腹が減って空腹に耐える思い出ばかりである」。

生長しても米が豊作か、不作かが気になった。 そんな世代である。

八幡工場に工場を作る 

結婚しても、家内は仕事には一切、口を出さないが、やはり相当の変化が出てきた。

家内の実家も、豊永の一族も、戦争で没落した事では同じであり、金銭面ではお互い貧乏であった。

★どちらも、生活は、貧乏であっても心は豊かであった。貧乏の苦しかった事は、それも又、良い経験をしたと、楽しい思い出に変えてしまった。常に明日を考える前向きな性格であった。

★ところが全然違うのは、私は、戦争で知らない土地に来て、東京の家は空襲で焼かれ、帰る所も無く、知らぬ土地に住み着いたのである。戦後の混乱、交通事情では、東京は気軽に行ける所ではなかった。

十数年会わない親戚は顔も忘れる頃に成っていた。つまり血縁は無い、知らない町で商売を始めた。地縁も無い、学校も前述ように卒業していない。『血縁、地縁、学歴』は何も無い、『故郷』(フルサト)も無いに等しい。

★家内の故郷で、自分の故郷が出来たようなものだった。家内が薫陶を受けた一柳満喜子和先生の所に結婚の挨拶に行ったが、その時に何を話したかは忘れてしまったが、結構世話になった。

★資本が少なくても出来る仕事には梱包作業がある。資材を持たず、手間だけの請負作業であった。その為に作業員の数が必要である。 

調べて貰うと、家内の実家である篠原から近江八幡付近は京都から大阪まで通勤している人がかなりいる。

★しかし、それは駅の近くの人で、通勤に便利な場所の話の事で少し離れた農村地帯では中々仕事は見つからない。 

しかも稲作農家は田植え、収穫時は一月づつ『農繁期休暇』が必要だった。それでも、当時の滋賀県は、麦、菜種油などの裏作は、輸入品に押され殆ど作付けはしていなかった。

流石(さすが)に米作だけ、半年の農業だけで生計は成り立たず、何か副業が必要であった。 

★そのうえ、当時は未だ、京都と滋賀県では賃金はかなりの開きがあり、しかも、作業員としての能力は優秀であった。

私達、夫婦が結婚する時、仲人の村田先生と一緒に、何かと世話をやいてくれた、同じ近江兄弟社学園の山田先生と岳父の中島甚之助が、二人で何かと人集めの協力をしてくれた。  

それを、ライトバンと小型バスで京都迄運んだのである。

暫く続けていたが、五人で一緒に通勤するのは、何かと問題も多く、時間と経費も係り仕事を八幡に持ってきては如何か?と云う事に成って来た。

その頃、当社の様に小資本の会社は、藁工品やダンボール等のメジャーな市場は避け、マイナーな市場を狙い、緩衝材のセロメンや、発泡ポリエチレンの加工を自宅の土間で細々と加工していた。

★これは、島津製作所等の振動を嫌う精密機械を、輸送するのに絶対に必要な資材で、これの使用は好評だった。

この加工を八幡へ持って行くメリット、デメリットの調査した結果、次の結論に達した。

緩衝材の加工は広い工場が必要であるが、この広い工場の手配が可能で、しかも費用は絶対的に安い。

人件費は京都よりかなり安い、農繁期休暇があるが年一0ヶ月を操業することで解決できる。

製品を運ぶ運賃が要るが、京都、八幡共に自社設備なので夜間の輸送ができる。これも、役員の労働強化ですむ。等、メリットが多いと判断し実行に移す事にした。

★幸いに、工場の場所は、八幡山の麓に『トキワ館』と云う映画館が廃業した跡の建物が見つかった。

機械の搬入を済ませ、作業員の募集に掛かった。『農繁期休暇』があるのが効いて、作業員は順調に集まった。仕事を始めて判った事だが、滋賀県の、農家の女性の働きぶりは見事なものだった。

★男子・七と、女子・三位の構成比率で考えていたのに逆で、男子・三で、女性・七の構成で工場は運営された。後に、八幡工場は豊永運輸倉の庫発展に大きく寄与した。

農村地帯に工場を建てる。

★あれは昭和50年頃だったか、弊社も高度成長の波に乗り、滋賀県・竜王町に工場を造った。

穀倉地帯の町と言うより、田圃の中の村で長閑な田園風景が残る地帯であった。

まだ地価は都市部の十分の一、人件費も都市部より三~四割は安く、当然我々もそれを求めての進出である。

★賃金が安いはずで田植え時期は農繁期休暇が一か月、稲刈時期も一か月の休暇である。

そこで弊社は一年十ヶ月操業を組んで工場運営をした。 

当然弊社は源泉徴収義務者である。給与には源泉徴収をしなければならない。

農外収入という魔物

驚いた事に彼等は農協を通して、農外収入として、農協経由で些かの税金を払う。

だから、だから、源泉徴収を辞めて欲しいと言うのだ。

詳しく事情を聴くと、耕作地一反に付、10俵が規定で、農外収入もそれに応じて幾ばくかを納めるのだ、と言う。 

源泉徴収を拒む農協

彼等は、弊社で貰う賃金は、農協を通して、農外所得で適当に申告しますので源泉徴収はしないでくれ、と頼むのだ。 

★ 弊社は当然『源泉徴収義務社』である。この要求は受け入れる訳には行かない。 

これでは源泉徴収義務者である弊社の経理処理ができない、と地域の税務署に相談に行くと、「朝来て働いて五時に帰ってゆく、住所は分らない」。 

『申告するなら住所不明』にしてくれ、」との返事に驚きを隠せなかった。 

★ 弊社は何度も京都の税務署と相談に通って、「源泉徴収をすれば、社員は散ってしまう。それでは事業継続が不可能になってしまう」。との説明に困惑した顔で、税務署員は、

「仕方ない、地域の習慣なら、向こうの税務署に連絡はさし控えます」。であった。

農協は税務署に対して押す横車

★この横車とも言える、農協主導の免税処置が農民に、根本的な合理化意欲の失せたのである。

★工場を始めた頃の農繁期は、春、秋の二カ月は休む。だが、暫く経つと、農作業は五月の連休と、有給休暇で済ましてしまう。 正規社員との勤務時間の差は、多少残業が少ないぐらいである。 同時に受け取る給与の差はなくなる。 何度でも言う。この人達の給与、(手取り30万円程と記憶している)、を無税にするという事になる。

この優遇政策が、抜本的な農業の近代化を妨げている。

★ 私は農業に工業の思想で経営すれば合理化ででき、儲かる事業になる、と確信した。

しかし、これには変則な、農協主体の農政の改革(排除)が前提である事も確信した。

米の生産量(石高)が、大名の格を示す、昔の農家は米創りが主体であった。

では、昔(江戸時代)の農家の生活を検討して見たい。

江戸時代の百姓は案外豊かだったのではないか?

★『織田が搗き、豊臣がこねる天下餅、安々と食らうは家康』。こんな戯れ話がある。 

でも、家康だって苦労も努力をしているが、ここでは省く。

織田信長が『兵・農分離』の元祖で、秀吉の刀狩りで、兵、農分離はほぼ固まった。 

★家康が大阪夏の陣で豊臣を滅ぼし、天下を統一し、『士・農・工・商』の身分制度を確立した。 

百姓は身分こそ、支配者の武士に続く身分を得たが、家康の政策は、各地の大名の戦闘部隊の主力の足軽は、農閑期の農民から調達した。

その供給源の農家の力を削ぐために農村を疲弊させせる事を含め、『生かさぬよう、殺さぬよう!』、収穫の半分は年貢の取り立で、百姓の手元には、半分しか残らなかった。 

これでは満腹にならないので水を飲んで凌いだ、と聞く。 

これが『水飲み百姓』の語源だと聞いている。 

★さらに『太閤検地』で『隠し田』は全て白日の下に晒され、収穫の全てが把握され、年貢の取り立てが行われた、聞く。

★こんな話を聞くと、江戸時代は百姓にとっては暗黒時代だった想像する。

しかし、奈良県・御所市の郷土史家、中井陽一氏の博士論文によると、『五公五民』の年貢も、庄屋の陳情に応じた査定の武士により、隠し田(簿外の田)の三割は「お目こぼし」,となった。

実質の年貢は収穫の三割であり『五公五民』の年貢は、その半分の『三公七民』で、百姓の取り分の方が多かったのである。

★これで筆者は納得した。 

春は豊作を祈る春祭り、秋は収穫の恵みに感謝する秋祭りが行われていた。 

神の供えたお供え物の御下がりは、村民の頂く事となり『飲めや、歌絵や』と、大いに楽しんでいる。 

そして、農閑期の御伊勢参りは、伊勢講(積立金)を組んで、集団で一月にも及び、伊勢神宮の門前町には大きな歓楽街もあって、伊勢講の農民は結構楽しんでいたようである。

★伊勢神宮の近在にある遊郭群は、千人の遊女を抱え、江戸の吉原、京都の島原と並ぶ三大遊郭と呼ばれた、と聞く。

 これらを考えれば各種税金に苦しむ、現代の我々より優雅な暮らしでは無かったのか、想像するが、あながち間違いでもなかったような気がする。

一揆の効用

★領主や代官が無理な課税や役務の調達をすれば、ムシロ旗を掲げ、一揆を起こし強訴すれば幕府に聞こえ、『領内の治世宜しからず!』と、領地召し上げや、国替えをされる事を恐れた領主達が穏便に事を済ませようと妥協したので、財政が苦しかったのは寧ろ支配者側の方だった。

★この話の出所の御所市名門の、中井陽一氏は、三井造船の技師で退職後、自家の土蔵に先祖代々残された五百冊に及ぶ古文書を解読した博士論文の一節から借用したものであります。原文は難しく、筆者の能力では読み辛く、中井先生に解説して頂いたものであり、誌上をお礼と感謝の意をさせて頂きます。

優遇され過ぎた近代農家の税政

あれは昭和50年頃だったか、高度成長の波に乗り、弊社も滋賀県・竜王町に工場を造った。 

穀倉地帯の町と言うより、田圃の中の村で長閑な田園風景が残る地帯であった。

その時に農地(タンボ)の買収、埋め立、建築、移転(京都市から滋賀県竜王町への移転続きで農業委員会の許可を貰う種々の手続きに手古摺った経験から、農政の不備を指摘させて貰う。 

当時既に米の生産は充分であったが、まだ米の統制は有効であった。

その頃に農政の改革が絶対に必要だ。

農家に成り損なう

この件で農協の若い職員数人と仲良くなった。ある日、数人のメンバーが揃い、雑談した事がある。

★当時は、田植え機は開発中で未だ無い。コンバインは、まだ実用化されていない。バインダーと呼ばれる稲刈り機だけは普及していた。でも価格は高く全部の農家が持っている訳ではなかった。

それを持った農家は農繁期休暇がみじかかった。それで、私は、

★「うちの会社に農家の人が二~三0名いる」そこで、

「会社でバインダーを一台買って交代で使わせると、農繁期が短くて済む。会社も助かる」。

そんな計画が立てられないか?と相談をした。その中の一人の職員が・・・・・

★「面白い事をいう人だ、貴方みたいな人が農協に入ると良いのだが、農協に入る気が有りませんか?」

「君達は、何も知らないのだな~」。

「俺は、農家でない、農協に入れる訳が無い」。

「日本では勝手に米を作って農家だと言えば、食管法違反で警察に捕まる」。

「俺、そんなの嫌だ、日本には、職業の自由など無いよ!」。

「運送屋でも免許がいる、勝手に出来ないんだよ!」。と言うと、

「何にも、知らないのは豊永さん、貴方ですよ!」。

彼はいう話はこういう事だ。地元で、

★「田畑の五反付きの家」を買い、そこへ住所を移せば農協の会員になれる。それで米造りが出来ると教えてくれた。

「そんな売り家があるのか?」。

「スーパー・マーケットで売っている訳では無いけど、アチコチ声を掛けて置けば売りたい人も出て来る、時間を掛け捜す事だ」。

それでは頼む。という事で話しは終わり、忘れていた。一年くらいたったと思う、ある日、畑が一反付いた古家が売りに出たのでどうか?言ってきた。

★「一反では農家になれないのでは無いか?」

「馬鹿だな、君は!足りない分は俺の田んぼを小作させてやる!」。

「俺に、田んぼ小作など出来ないよ!」。

「そんな事誰がお前にさすか!もう黙っていろ!家に付いた畑も俺達で管理してやる」。

「最近は不在地主が煩いから、その手配をする事だ」。その対策は始めからから考えていた。

★私が、住所を竜王町に移し、家内の実家の両親と住む。近隣との付き合いは、岳父甚之助が滋賀県の人で、人望のある人だから心配はない。地域の共同作業は充分務めてくれる。娘の婿は京都に勤めに出ている。これで、準備完了と、手続きに入った。田舎の事で暇がかかっている、こちらも急ぐ事ではない。

運の悪い事に、岳父はその時『胃癌』に犯されていた。

かなり進行は早く、その年、六八歳の生涯を閉じた。その死は、『余りにも早く、あっけなく、』一家は嘆き、哀しむ内に、この話は流れてしまった。

★米の生産に工業生産の手法を用いれば面白いと痛感した。 

だが、当時は高度成長期で弊社も日常の業務が多忙を極め、余分な事をしている暇がなく忘れていた。

期が熟した

★それが最近と言っても5年前(2009年9月号)のWEDGEに「育ち始めた農業のプロ」を読んで手を叩き、喜びたい衝動に駆られた。

以後、続々と農政批判の記事が続いた。 

例えば、2014年1月20日の産経新聞のコラム正論、「正攻法で農業改革に当たれ」、同じく3月4日の「TPPの死はアベノミックスの死」で屋山太郎氏.日経新聞1912年9月30日の「そして大潟村が残った」が論じている。 

これ等の記事は、的を射た記事で、数字も調べてあって著者に敬意を表したい。

(これらの論文は私のパソコンのデーターに、全文保存してあるので読み漏らした方が、読みたいと思う方は何時でも送らせて貰いますので、御一報願いたい。

貴重な資料でもあります)。

その内の例えば、2014年1月20日の「TPPの死はアベノミックスの死」で屋山太郎氏.日経新聞1912年9月30日の「そして大潟村が残った」が論じている。 

以上2点を紹介させて頂く。

「国は余計なことをするな!」  

 育ち始めた農業のプロ (WEDGE 2009年9月号の全文)

     

南米ウルガイ、東欧ウクライナで米や大豆の生産を始めた日本人がいる。

海外での生産、販売が軌道に乗れば、収縮の一途を辿る国内市場も広がる余地はある。

「そんな農業経営のプロの成長の目を摘むのが、自給率の向上を唱え、農家保護に固執する農政だ!」

海外展開の促進を装ってはいるが、そこには、金も、知恵も、やる気もない。

それならば、日本農業を背負って立つ農業経営者の邪魔だけは辞めてくれ!

失笑を買う、農政の海外戦略

今年の二月、筆者が発行する月刊誌『農業経営者』の読者とともに、ロシア沿海州を尋ねた。

新潟から空路一時間半のウラジオストックから車で3時間。そこには広大な水田地帯が広がっている。

★緯度は稚内と同じ北緯45℃だが、夏の日照に恵まれたコメ栽培の適地である。

中国の黒龍江省と国境で隔てられたハンカ湖周辺である。

★我々は、そこで日本人の農業経営者たちが、日本の良食味品種を、田植えが要らない乾田直播という低コスト技術でコメ作りに取り組むことを目指している。

(Madebai・in・Jpaniese)で、市場はアジアである。

ロシア人女性と結婚し、沿海州に役8000ヘクタールの農地を持ち、そこで大豆やコーンの生産をするニュージ~ランド人経営の農場を日本商社の紹介で知った。

★その農場では約4000hrの水田も所有しており、そこで経営実験に取り組むべく話を進めて行くのだ。

ところが、同農場が韓国のヒュンダイ財閥に買収され、我々の計画は頓挫してしまった。

大豆、コーンの調達のため日本商社が同農場に出資をする交渉を進めたが、韓国側は日本より桁違いの好条件を提示し、農場を買収してしまった。

★我々も諦めたわけではないが。アフリカのマダガスカルへの進出など、海外の農業生産に国を挙げて取り組んでいる韓国と、わが国の意気込み違いを痛感させる体験だった。

また、昨年の三月には中東ドバイを訪ねた。

七つ星ホテルを自称するバ~ジェル・アル・アラブを含め、同地の卸業者やスーパーマーケット、レストランなどに読者農家の農産物を売り込むためである。

しかし、そこでも日本国政府の農業海外展開への戦略性のなさを目の当たりにした。

読者農家の一部も出展した湾岸地域最大の食品展示会「Gulfood」。

★しかし、農林水産省肝いりの、同展日本館の展示の情けなさ。

日本より遥かに大規模で出展していた中国館や韓国館では、自国の農産物が適正な工程管理の下に生産された事を示すGAP( )認証の産物であることを明確にしているのに、対して、日本館は相も替わらず、桜、富士山、芸者である。

そして、もうひとつはUAEを代表する高級スーパーの「スピニーズ」に日本の農水省が設けている常設コーナーのことだ。

スピニーズのバイヤーはこう話していた。

★「日本の食料品の,品質の高さは解る、でも、我々は棚代を貰っているから問題はないが、日本産の農産物が高いという事を宣伝しているようなものだ」。

フランス産、米国産、中国産などのリンゴがキロ175円~200円であるのに対して、日本産はなんと4000円。いかに高級品とはいえ法外だ。

★地元の客は「中に金でも入っているのか?」と笑っていた。

農水省は舐められた、と言うより、高い税金を使って日本の農産物のマーケティングに水を差しているようである。

 

世界五位の農業国が輸出しない理由

昨年、農水省、政治家たちが声高に叫ぶ輸出促進は、戦略的なマーティングとは程遠い。それは日本農業の海外進出のためというより、彼らが輸出促進に取り組んでいることを示す、あくまで日本国内向けの宣伝に過ぎない、と思えてしまう。

わが国農政は、国内農業の保護を優先するあまり、世界の趨勢からは完全に立ち遅れている。

★しかも、海外の日本食ブームという日本農業にとってのビジネスチャンスにもかかわらず、その農業政策で自ら海外展開への障壁を作っている。

農水省の発表によれば、2009年に日本から輸出された農産物(林産、水産物を除く)は2883億円。04年の2038億円からすれば確かに延びている。

しかし、FATの統計で世界と比較すると、05年の日本の輸出額は19億ドルに過ぎない。

それに対して、英国は216億ドル、ドイツ425億ドル、米国の653億ドルなどと桁違いの金額である。

★1965年には、日本、英国、ドイツの輸出額に大きな差はなかった。

しかし、70年代からは各国は輸出比率を高め、15年までには英国は20倍(200ドル増し)ドイツは実に70倍(420億ドル増し)も増やしている。

★それに対して我が国は、40年間横ばいといってもよい状態にある。

現在、農水は農林物輸出を「平成25年までに1兆円規模を目指す」と言うものの、その半分は水産物が占める数字だ。ドイツ、英国のレベルには遥かに及ばない。

★我が国の農業生産額は05年で885億ドル。我が国の農業生産額は先進国中で第二位、世界では第五位であり、ドイツ、英国の4倍以上もある。

にもかかわらずこの輸出額なのである。

★その理由は、経済成長下にあって恵まれた国内マーケットと778%という高額関税によって守られた高額米価によって支えられてきたことにある。

今後、欧米諸国以上の勢い以上の勢いで進行している高齢化は、急速に国内農産物マーケットを縮小させていくことになる。

★しかし、敗北主義を捨てて、輸出や海外生産に取り組めば、世界マーケットで必要とされる存在になることが可能である。

海外生産に乗り出す農家が現れた

「農業経営者」では、十年近く前から、コメをはじめすする和食向け日本食材や、独自の技術を果樹園イチゴの等の海外での生産と、マーケットの開拓を呼びかけてきた。

(“Maido in jyapan””Meid ba jyapn”)である。

読者ともどもに、オーストラリア、ウルガイ、中国、ドバイ、ロシア沿海州などの“適地”に調査を行い、既に一部の読者農家は海外に農場を持ち始めている。

★カルフォルニヤ在住で「田牧米」のブランドを立ち上げた福島の稲作農家田牧一郎氏は、ウルガイで現地の農家に指導を行いながら日本米の生産に取り組みはじめており、今年から販売を始める計画だ。

ウクライナで大豆作りを始めた青森県の木村慎一郎氏は、日本に輸出することを想定し、今や同国農業関係者注目の的である。

また、千葉県の木内博一氏が率いる和郷園という農業組合法人で生産される,バナナやマンゴーがドールのバナナや現地の他のマンゴーより遥かに高い価格で取引されるようになっている。

まさにジャパン・プッレミアムである。

それだけではない。既に農業にビジネスチャンスを見出せる農業経営力のある農業経営者は育っており、さらに農家数は減っても経営者として農業に取り組む才覚を持つ若者が増えている。

経営者自らの努力と彼等に呼応する企業の取り組みにより、国内農業も、輸出も、海外農業生産もやがて大きく成長するだろう。

海外マーケットに関しては、日本のフードビジネスが海外進出に意欲的になっていることが追い風になる。

食材は食文化とともにあるものだからだ。やがて、海外で作った日本品種がカルホルニヤを凌駕する時代がくる。

そして、世界的なコメ市場の中では極めて小さな存在でしかない日本米は、海外でMede・bi・jyapanizuに取り組めば世界の人々に認識されるようになり、高価な国内産もマーケットを広げるだろう。

過保護政策が導く国家と農業の衰退

こうした我々の活動に対し農業関係者の多くは、つい最近まで冷ややかであり、「お前たちは海外産地で,低コストで造って日本農業を危なくさせる気か?」と凄む人もいた。

そんな,日本の農業関係者の精神的鎖国状態は我が国の農政そのものに原因している。

★筆者はかねて「農業問題とは農業関係者問題」。あるいは「農業関係者の居場所作りのために創設される農業問題」であると言って来た。

そして、彼等の主張は、貧しい農民や農家の存在を前提としてきた。

国家が農業を管理する計画経済型、あるいは途上国型の農業政策を続けることである。

★EUあるいは英国で80年代にそれまでの過度の農政保護政策を止めたのも、供給過剰が常態化する先進国において、過剰保護政策が国家経済の負担になるばかりでなく、農業そのものの衰退に繋がることを理解したからである。

★しかし、日本の米価を高値に維持させる手段としてコメに対する高い関税の維持や生産調整を続けている。

そんな政策が続けるのは正に「農業問題とは農業関係者問題」であるからなのだ。生産調整で米価を維持すると言ったところで、米価は大多数の農家に家計にとってはほとんど意味を持たない。

稲作農家の大多数を占める高齢稲作農家の生産規模は50―70アールに程度である。

当然、収支は大赤字、でも、それらの人は稲作の収入で生計を立てているわけではない。

★普通のサラリーマンである息子や孫の収入に依存している。

収穫してコメの少なからざる部分を親類縁者にお裾分けすることを楽しみにしている。

★同時に、現在、農協の組合員は約920万戸、その中の半分は実際に耕作を行はず農協に出資するだけの準会員である。

★一方、農業生産者の中で、販売額が一千万円を超える者は約十四万戸、農協組合員の1.5%の過ぎない。

農林族の政治家を操る農協組織にすれば、98.5%の組合員の利害を優先させるのは当然だ。事業的農家が農業生産額の過半を供給にも関わらず、彼等の利害や日本の農業など関心外だ。農業団体や農家自身が農業の産業化を阻んでいるのである。

自給率向上より輸出促進に取り組め!

「農家の高齢化」、あるいは「担い手不足」。など言われているが、欧米と比べ日本の農家数はまだまだ多すぎる。

★政策転換にはこれまでの無策のために過度的な混乱も生じ、事業的農家にとっても困難が伴う・対象を限定したセーフティネットで切り抜けるしかない。

しかし、前述のように経済力のある農業経営者や農業に取り組む才覚を持つ若者が育ってきており、彼等の呼応する企業の取り組みによって、国内農業も輸出も海外農業生産も、やがて大きく成長するだろう。

また、諸外国と比べて検疫体制の未成熟な我が国の輸出においても不利な条件に置かれている。

正に戦略的な行政施策が必要だ。フードビジネスとの連携、輸入国を納得させる検疫体制の整備など、農水省は欧米諸国と同様の戦略的な輸出促進に取り組むべきである。

しかし、現実は、日本農業の成長にとっては害毒にしかならず、どの先進国も政策指標とはしていない。

“食料自給率向上”を農業政策の基幹にし、そのために三千億の円もの予算が使われているのに対し、輸出振興予算は二十億に過ぎない。

しかも、その運用が戦略的でない。現在の農業政策は、農水省に省益確保、農業団体の居場所としてしか機能していない。

さらに、自民党から共産党にいたるまでの政治家は選挙目当てにしか農業を語らない。

しかし、我々が先進国の人間であるならば、民の力で未来を創ることに取り組むべきでないだろうか。  完)

続いて「日本の場当たり農政の一例

(日経新聞の記事を転載させて貰う)。

★そして大潟村が残った。  

政府は1961年、戦後農政の憲法といわれる農業基本法を制定した。目指したのは海外のように大規模で機械を使った効率的な農業だ。 琵琶湖に次ぐ広大な八郎潟を干拓して誕生した秋田県の大潟村はその象徴だ。

               

★9月下旬、大潟村は収穫期を迎えていた。 見渡す限り続く広大な田園風景は、農地の狭さに悩む日本のものとは思われない。人の背丈を超す大型コンバインが遠くで豆粒のように見える。だが新しい農業のモデルとされるこの村の歩みは、国の政策に翻弄された歴史である。

★農業の人口減に注目

78年、まだ若手農家だった酒井徹さんは厳しい表情でコンバインを操縦していた。

刈り取った稲は田圃に捨てた。その光景を見つめる妻のアヤ子は溢れる涙を止める事ができなかった。「苦労して育てたお米を捨てるなんて。」

この年、大潟村は生産調整(減反)を求める国の方針に反し、上限を超えて作付した。

国は農家に配った土地の返還を迫るという強硬姿勢で臨み、農家はやむなく稲を処分した。

村の人々はこれを「青田狩り騒動」と呼んだ。

大潟村は64年に誕生した。 当初は4700戸を入植させる計画だった。だが、開村の3年前に施行された農業基本法を受けて見直され、最終的に600戸弱が入植する事になった。

★その分、各農家への配分面積は当初の計画の約6倍の15ヘクタールに広がった。

基本法は食料不足の解消にほぼ目途が着いた事を踏まえ、農政の新たな柱を立てる為に制定された。

目的は農家の収入を増やし、経営を自立させること。 基本法制定に尽力した元・農林次官・故・小倉武一は著作で「経営規模を拡大し、機械化できるようにする」と説明している。

★そこで着目したのが農業就労人口の減少だった。 工業化による行動成長で働き手が農業から離れる事で、規模を大きくできると読んだ。

大潟村の計画もこうした狙いに沿って見直された。 近くの村の次男や三男を大量に入植させる案を国は退け「精神的にも肉体的にも弾力性のある全国の青年層から優秀な者を選択する」方針に改めた。だが、各地から集まった農家の夢は開村から僅か6年後に挫かれた。 減反の開始だ。

★日本は60年代の半ばに米の自給率を達成したのも束の間、食の洋風化に伴い、逆に米余りが深刻になった。国は70年から本格的に減反に踏み切る。 大潟村の青田狩り騒動はこうした中で起こった。

騒動から30年余。減反への参加を巡り村民が対立するなど混乱の時期を経て、効率的な経営を実現して行った。日本では例外的に広く平らな田圃が強みを発揮した。耕作放棄地はほとんどなく、多くの農家に後継者がいる。

涌井は会社を創って消費者向けに米の販売を始め、安全検査の体制を整えるなどの先進的な経営者として頭角を現した。「中国やインドなどに輸出を計画している。

★地価高騰が壁

これに対し、他の地域では農地集約は進まなかった。 「地価が高騰し、規模拡大が円滑に行かない」。 小倉は70年代の始めごろ、後輩の農水官僚の後輩で次官になる渡辺文雄にこう漏らした。 高度成長は地価高騰を農村にまで波及させた。農家は工場や住宅への転売を期待するようになった。

★基本法は日本の農業を強くすると言う目的を果たす事はできなかった。 その後、農政は幾度も規模拡大を掲げ、その都度弾き返された。 99年には担い手への農地集中を目指す食糧・農業・農村基本法(新基本法)を制定した。 だが、耕地面積は今でも2ヘクタールしかない。 それでも政府は昨年、稲作の大半を20~30ヘクタールにする計画を定めた。

元次官の渡辺氏は「至難の業」と語る。

農林水産省があてにするのは平均で66歳になった農家の引退だ。 高齢化が極に達したころに改革の契機とせざるを得ない程に、追い詰められた農政の現状を示す。

★ばら撒き農政への回帰

日本の農政は国際競争力を強める為、1990年代から担い手に支援を集中させる選別政策を強めた。 だが、2009年に誕生した民主党政権は兼業農家にも広く補助金出す、戸別補償制度を導入し、ばら撒き農政に回帰した。政策の焦点は定まらず、20~30ヘクタールへの大規模化にも暗雲が漂う。  

★弊社は昭和50年代の高度性期に滋賀県竜王町に工場を建設し、当然、従業員は地元に求めた。 面接は当然農作業の終わった、夜でるである。

机の下に隠して置いた一升瓶を取り出し、茶椀酒を酌み交わしながらの話だ、本音が出る。

如何に日本の農家には税政が優遇されていたか、

「2頁の江戸次代の農家の実情を参照ください」。  完)

  ★そこで竜王工場移転で得た経験から、庶民の眼から見た農政の過保護、一般企業より如何に税政で優遇せれていたかを論じて見たい。

まだ地価は都市部の十分の一、人件費も都市部より三~四割は安く、当然我々もそれを求めて争っての進出である。

賃金が安いはずで田植え時期は農繁期休暇が一か月、稲刈時期も一か月の休暇である。

そこで弊社は一年十ヶ月操業を組んで工場運営をした。 

(この為に、10ヶ月は竜王町の労働者を市内に運び、二ヶ月は京都の労働力を竜王町に移動させる、と苦労は絶えなかった)。

源泉徴収さえ拒む農協の横車

当然弊社は源泉徴収義務者である。

支払う給与には源泉徴収をしなければならない。

驚いた事に募集に際して、彼等は農協を通し、農外所得として税金を払う。

だから、だから、源泉徴収を辞めて欲しいと言うのだ。 

それでは弊社の決算業務はできない。

★それは無理だ、と言っても要領を得ない話をのらりくらり繰り返すばかり。

これでは源泉徴収義務者の責任は果たせない、と地域の税務署に相談に行くと、

「朝来て働いて五時に帰ってゆく、住所は分らない。 

『申告するなら住所不明』にしてくれ、」との返事に驚きを隠せなかった。 

弊社は何度も京都の税務署と相談に通って、「源泉徴収をすれば、社員は散ってしまう。それでは事業継続が不可能になってしまう」。との説明に困惑した顔で、税務署員は、

「仕方ない、地域の習慣なら、向こうの税務署に連絡はさし控えます」。であった。

この横車とも言える、農協主導の免税処置が農民の合理化意欲の失せたのである。

内緒に話

★仕事が終わって、机の下に隠しておいた一升瓶を取り出し、彼等と冷酒を茶碗で酌み交わした。 酔いが回ると気を許してか、話に弾みが就いてくる。 

詳しく事情を聴くと、納税は耕作地一反に対し10俵が規定で、農協に出荷し、農協から購入した資材の金額を、米の代金から差し引かれ、弊社から受ける賃金は農外収入もそれに応じて幾ばくかを追加して納めるのだ、と言うのだ。 

★彼等の保有する田んぼは、一町歩(3000坪)から一町歩半(4500坪)である。 

一反(300坪)当たりの収穫は十俵と査定されているので、100~150俵をその年の米価によって農協の講座に振り込まれる。 

農外収入の税金が幾ばくかを差引かれるというのだ。

冷酒を飲みながらの話で嘘はないと思われる。 

収穫の実際は 十三俵だ、つまり3俵、(三割)の余禄である。 

闇米として税外所得で売られているのだ。 

町の商人で言うと、売り上げは、三割を引き、経費は掛かっただけと同じである。 

これが農協の圧力でまかり通っていたのである。

(江戸時代の隠し田、現在の少な目のする収穫、この余録の小銭が根本的合理化を妨げているのだ)。

★昔のひとは偉かった

筆者は日本の農政の悪口ばかり言ってきた。 

しかし、我々の先祖は、現在でも考慮しなければならない問題にも取り組んでいた。

江戸時の地主は広くもない農地を、かなり遠くに飛び地として所有、耕作していた。

これを耕作するのに、自動車もない時代である。朝は朝星の内に家を出て、夜星を見ながら帰宅する。

歩くしか交通機関の無い時代、かなりの負担だった、と推察する。 

でも、これには大きな思惑があってのことだ。 

また、御所市の中井陽一氏の博士論文を引用させて頂く。簡単ではあるが非常に重要な事である。

この飛び地は全て水源が異なるのである。

「旱魃(カンバツ)や気候変動を避け、水源地が異なるのである。」

これは現在の我等から見て素晴らしい事である。 

後世に引きつがねば重要な遺産である。 

私の知人で齢80歳を超えた男の、農業法人に挑戦する話を紹介する。

私の昔馴染で薄板を加工し、ラック、机、棚、棚板、から自働倉庫へ、と発展した製造メーカーがある。

そこが工場を拡張が続けて、大阪府泉北郡忠岡町新浜の本社、及び向上が、が手狭となって、福島県石川郡平田村に広大な土地を求め、工場を移転した。

★創業社は私と同年代の81歳である。 この年代の特徴で働き詰めの人生であった。

70後半で癌を患ったが、健康な体に強靭の意志を持ったお蔭で一命は取り止めた。

ふたりの御子息が家業の金属工業を継ぎ、兄が社長、弟が専務で業績は発展する。

一般的には『功成り、名を上げて男として楽隠居』するの普通である。

しかし、彼、新井氏は日本の祭優先課題である、農業の近代化を、を試み、農業法人を新設、農業の近代化に挑戦するのだ。

★一時は上場も検討に上ったが、創業者一家と創業時から勤務する者、中心のフアミリー企業への道を選んだ。

これには私も同感で、万雷の拍手を送る。悪戯に上場して企業を公器にする事は投資家を喜ばすだけで、授業員の為にも、顧客の為にもならない。

病を機会に会長となって実務は御子息に譲った。 現役を引退、時間が出来た。

福島の工場は山地を切り開き、土地は山あり谷ありで周辺は広大な山地である。

ここの緑化を兼ねて、果物の木を植える。 

5ヘクタールの地域の休耕田を借り、創った米と、果実の直販する、と聞いたので、その一翼を担わんと、馳せ参じたしだいである。

★我が社(豊永運輸倉庫)も、昭和50年頃だったか、滋賀県の竜王町に工場を新設した。

この時、私も農業に近代工業の手法を取り入れたら、日本には、アメリカのような広大な農地はない。しかし、日本の平野は小さいが連綿とした山岳に囲まれている。

即ち、山地に降り注ぐ雨は河川、地下水となって下流の平野を潤す。

さらに日本の気候は四季があり、日本の農業も世界初めての、狭隘地の農業ができる、と確信した。

ここに企業経営では『千軍万馬の老将・新井正準氏』が登場し農業法人を創設した事を祝いたい。 及ばずながら、痩せ馬に、錆槍一本を持って、先陣に馳せ参じたい。

早送りの近現代史

★早送りの近現代史

古語に曰く、「凡人は自分の体験に学ぶ。賢人は歴史に学ぶ。聖人は歴史で悟る」。

その歴史は勝者が創る」。

★私の尊敬する『筑波大学の名誉教授の渡部昇一先生が建てた仮設に、

★『もし、豊臣秀吉が、ボケないで家康より長生きをすれば世界史も替わったであろう。

★『もし、豊臣秀吉が、ボケないで、『秀頼』が産まれなかったら、世界史も替わったであろう。

★何故か?

秀吉は伴天連の野心が、スペインの世界征服の先兵だ、気が付いていので、主君の信長に伴天連の動きに気を付ける、と上申していた。 伴天連の持ち込む文化化を取り入れに熱心な信長は、スペインは遠隔地だ、そんな遠方から軍隊を送って戦争を仕掛けてきても、日本の武士が負ける筈はない。 と、相手にもしなかった、と一蹴に伏した、と聞いた。

しかし、平成の我々は想像する。 この仮説を元に、未来を予測する事は、意義のある事と信じるので、この物語の、要所、要所で検討したみたい。

★秀吉がボケないで長生きをしたら、アジア地区にスペイン、ポルトがると、争って、進出したから、世界史は替わった。 

大東亜戦争は起らず、日本も先進諸国と世界の覇権を争って、世界情勢も替わっていたであろう。

だが、家康が豊臣を滅ぼし、天下を取って慶長5年『元和偃武=1615年(慶長5年)元和(平和になった)

『偃武(武器を伏せて武器庫に収める)』。

『平和になった、武器は武器庫に収めよう』と、宣言。 長崎の出島でのオランダと窓口として鎖国を実施した。

★そして世界にも稀な、260年も、戦のない平和が続き、江戸文化に花を咲かせた。

江戸文化は庶民文化だ

★あまり豊かとは思えない下町の、傘をさしては行き違いもできない、細い路地の軒先に朝顔の花を咲き競わせ、愛でる。

台所を含め、二間しかない長屋に、美人画を懸けて楽しむ。

東海道の名所、旧跡の風景を浮世絵にして楽しむ、等はヨーッパの貴族並の美意識だ、と幕末に、日本を訪れた旅行者の記述がある。しかも、その価格は掛けソバ二杯分という安価なものであったのは驚きである。 さらに芸術性に至ってはルネッサンの巨匠に多大な影響を与えている。

★しかし、その間に欧米諸国は近隣諸国との、戦を繰り返し、技術の進化を遂げた。

日本では、徳川幕府の260年を、為政者、一般大衆を含めて、太平を楽しみ、江戸文化の華を咲かせて。

ヨロッパ文明もルネッサンで豪華賢覧に花は開いたが、貴族が中心の貴族文化で、庶民は蚊帳の外。 

一方の日本の江戸文化は、貧乏人が河原に丸太で骨格を造ってムシロ張の小屋を、『河原乞食』と呼ばれた集団が、歌って、踊って楽しんで、現代の名門、『歌舞伎』の原型で現在で、『歌舞伎座』の元祖である。

★時代は下がって、アフリカ、中東、南洋群島の植民地化が終った、欧米先進国は、東西からアジアを植民地にせんと迫ってくる。

★鎖国(国を閉ざす)と言っても、キリシタン事件と関係なかったオランダの商館を通じて世界の情報伝わってくる。 それによると、勤王の志士という人々が密航して、知った、情報は隣のチャイナが『阿片戦争』に敗れ、悲惨のどん底である。

この現実は幕府の重臣や、密航して勤王の志士も情報は共有し、危機感を持ったのである。

それが、世界にも稀な、明治維新が成功した理由である。

★現在の危機は北朝鮮の核・ミサイルの開発である。

チェコの一部をドイツ系の住民が多いとドイツに併合しようとした。

これを嫌った英、仏が反対したが、ヒットラーが強固に主張。戦争をも辞せずの雰囲気であった。  

これが戦争に発展する事を嫌った英、仏が妥協し、西側陣営が、ナチ・ドイツの言い分を飲んだ、『ミュンヘンの合意』である。だが、これに自信を付けた、ナチ・ドイツがポーランドに侵攻し、第二次世界大戦へと発展して行ったのである。

★現在の北朝鮮の核武装化を防ぐ為に、日米は反対の圧力をかける事によって塞がんとするが、韓国の文在寅大統領は、北朝鮮と話し合え、と叫ぶ。

韓国のインテリ層の代表をした発言である。 しかし、話し合い、譲歩は何度もしている。

その間に北朝鮮は時間を稼ぎ、内密で核開発を進めている。

大統領・文在寅氏の発言は、北朝鮮の核・大国化を認めず、争えば偶発的な戦争に発展する。すれより、北朝鮮の核・保有を認め、核拡散を抑える方が得策で、と唱える。

★だが、これ等の行為は、ナチ・ドイツの言い分を、戦争を避ける為と、ナチ・ドイツの飲んだ『ミュンヘンの合意』が、より大きな戦争、第二次世界大戦の導火線となった事を歴史が証明している。

★しかし、我々が歴史に学ぶと言っても、高校や中学校の教科書で教える、韓国的な歴史観ではない。 

大韓民国が独立したのは、朝鮮半島を戦場に日清戦争で、清国を破って、清国の朝鮮への介入を排除した結果である。

高麗、新羅、任那の三国時代と呼ばれていたのを統一して、『朝鮮』と名乗ったが、創始国と崇める明国に、統一を報告し、何と名乗れば良いか、教えを請うった。

明の皇帝から、新たな国号を「朝鮮」と「和寧」の二案から選んでもらうという形式的手順を踏んでいる。

★それを統一した李斯が500年前であった。

以後、朝鮮の創氏者、李斯の名を被せ『李斯・朝鮮』、また『朝鮮』はと呼んだ。

★彼等、朝鮮民族の世界感は、文明の源は中国大陸で、そこから朝鮮半島を通り、日本に及んだもので、自分達は『中中華』で、自分達は特別の存在と、根拠もない事を驕り、威張っていた。

★その根性は現代に通じている。 その証が中華人民共和国に『対日戦70周年の記念軍事パレード』で、天安門の雛段に習金平氏と並んで御満悦の顔を見れば判る。

だがチャイナは、60年前の北朝鮮戦争に義勇軍を派遣し、北朝鮮を援助した、共同の敵であった事等を忘れたように中国寄りである。

★そして日本の対しては『歴史を直視せよ!』と叫ぶ。

★だが、我々は韓国(朝鮮民族)こそ『真実の歴史を直視しろ!』と言わなければならない。

そこで我々はこの歴史観を『韓国的歴史観』と呼ぶ事にした。

★もうひとつ忘れてならない歴史観がある。 マッカサ―の残した暦史観である。 これが日本人の魂を抜いた。

★世界に例を見ない天皇陛下の存在

これは、筆者が強調したい事である。

★この戦争もポツダム宣言を受託する、という『玉音放送』で、戦争は終結、日本本土に進駐したものの一発の銃声も聞かなかった。 

あの激烈な玉砕(全員が戦死)するまで戦った日本軍は、どこに隠れてゲリラ戦を戦うかを恐れた。

★進駐して、数日後に占領軍の司令部に天皇陛下が、通訳一人を連れてマッカサ―司令官を訪問した。

マッカサ―は内心、喜んだ。天皇を逮捕するには、宮城の警備に近衛師団二個師団の守らているのは事前調査で解っていた。

★彼等がどんな抵抗をされるかを、危惧していたにも関わらず、お目当ての天皇が、ひとりで飛び込んで来たのだ。 直ぐMP(憲兵)に逮捕の準備をさせ、

『命乞いか?亡命希望か?』と、尊大に構えて待つ。

★陛下は開口一番、

「ポツダム宣言に、戦争指導者を、戦争責任を裁判で問う」と、聞きましたが、

「朕(天皇配下自身)が、最高指導者で、彼等は朕の名に従っただけ、責任は全て朕にある。極刑(死刑)でも甘んじて受ける」、というのだ。

世界戦史に例を看ない、この発言に驚き、傲慢な態度を一変、臣下の態度で、「陛下はお疲れのようだ、コーヒーを差し上げ、休んで頂け、部下に命じた。

★天皇陛下は、さらに、持参した包みを解き、「これが朕の自由になる資産の全てである。これを閣下に預けるので、家も衣類も焼かれ、日々の食糧にも窮している8000万に人民に、閣下の御力で食料を与えてくれ」、と頼むのだ。

筆者の見解

世界戦史に例を見ない指導者であり、日本社会の特徴である。

★第一次世界大戦に敗れたドイツを見ろ!

ドイツ帝国の国王は、人民による、敗戦の責任を追及され、ドイツ国内にいたたまれず、オランダに亡命、かの地で死んで墓さえも見あたらない、末路である。

この日独の現在を比較して見ろ! 

★さらに第二次世界大戦の戦争責任を、ヒットラーひとりに押し付け、ドイツ国民は被害者である、の態度をとっている。

★識者と称する方々は、韓国に阿って、戦後処理の謝罪はドイツを見習え、という。

だが、第一次世界大戦に敗れたドイツは、敗戦の責任を皇帝に追及、国内にいたたまれず、オランダン 亡命,かの地で客死していて墓もないと聞く。 それと比較して頂きたい。

★この一言で、マカーサーは、完全に臣下の礼を採った。

「日本の天皇配下とは、そういう存在でしたか、私も天皇の臣下に産まれたった」。

「なんなりお申し付け下さい。私にできる事は何でも致します。」

あらゆる○○の制度を利用した食糧援助が始まり、年度替わりの4月には銀シャリの飯には程遠いが、脱脂粉乳に次、キュウバー糖(砂糖)からなんば粉(トウモロコシの粉)、

メリケン粉と呼ばれた小麦粉等は「こんなに旨い食べ物があったのか?」と、思うほどであった。

我々国民も脱脂粉乳を『家畜の餌だ』といいながら、調理法を研究しながら我々の胃袋に消え、飢餓状態は脱した。

夏の頃には、米こそ不足しているが、芋を混ぜた『イモ粥』なら腹一杯に食えるようになってきた。

★だが、このマッカーサーの処置は、天皇陛下に位負けしたマッカサ―の温情ではない。

彼はアメリカの軍人で最高司令官である。日本の占領政策を順調に実行する為には天皇陛下を利用するに如かず。であった。 その証拠が「皇室の弱体化であり、宮家の減少」であった。 現在は、今上天皇、今上天皇の弟、その子と三代は続くが、皇統の持続に不安が状況である。日本人は世界の諸国の思惑には、『刮目して見るべきである』。

筆者の意見

マッカーサーの温情でない事を『刮目して見よ!』。

彼はアメリカの軍人である。任務追行の手段として利用したに過ぎない。

然るに日本人、中でもマスコミは、彼等の政策を善意と信じ、神の如く崇めたのである。

そして置き土産の憲法を後生大事にしながら、反米に現を抜かす、不思議な動物(組織)である。

★歴史とは、昨日の事は思い出し、明日の参考にする事は自分の歴史から未来を予測する事と同じだと信じる。

日本に限らず世界の歴史を学び、将来を予測の参考にするには何処まで遡るか、が問題である。例えば、人類の発生、縄文時代も歴史で、当時の日本人の食生活を調べるだけでも一流の論文になる。 神話時代、王朝の成立、貴族政治、武家政治等々で思案すればきりがない。

神話のある国は歴史も古い

★初代、神武天皇始め、何代かは神話の世界である。 しかし、神話のある国の歴史は面白い。

国連加盟国は200ヶ国程あるがギリシャ、ローマ等で幾らもない。

ましてや、ギリシャ神話に出てくる『トロイ戦争の英雄』の、現在の系図はない。

だが、日本の神話で『天孫降臨の従者』の藤原何某は、貴族政治の中核を担った藤原一族である。 藤原氏は娘を天皇の后にさすが、『  』にはなっても皇位は狙わないで、臣下に甘んじる。

戦後の日本史で我々は教え込まれた。

即ち、国民と天皇陛下は善良であったが、軍部の独走が戦争を招いたのであって、国民と天皇陛下は平和を愛したのである。と、教えられた。

さらに占領政策の置き土産として、戦争の放棄と、交戦権まで否定した憲法を置いて行ったのだ。

交戦権を放棄して、どうして国家な運用ができるのか?不思議である。

それを革新と称し、反米を唱える共産党、民社党に進歩的と言われるマスコミに関する諸兄が、挙って護憲を唱えるのは不思議でないか? 

★97代目の安倍内閣が、やっと『戦後レジ-ムからの脱却』を叫び、『憲法改定』を唱える初めでの総理である。

★今次大戦の概要

日露戦争に勝利した日本を白人のロシア帝国に勝った事は世界で賞賛の嵐が巻き起こった。

だが、アメリカ人は賞賛と同時に不安の心理が湧きあがった。

日本人は明治維新のよる近代化を始めて40年足らずで、当時最強と言われたロシア軍を破った。

さらに、これも世界最強と自慢のバルティック艦隊を、日本海海戦で全滅さす。

世界戦史に類を見ない圧勝である。 世界史に残る、イギリスの提督・ネルソンが、当時、無敵艦隊と呼ばれたスペインの艦隊をトラホーガる・・・・・・

これは、アメリカ人の間に恐怖感を湧き起こすに十分な事であった。

『日米もし、戦ば?』、と、ら危機感を煽った。

アメリカの

アメリカの東洋艦隊に日本艦隊と戦って勝てる戦艦はない、『日米もし、戦わば』の疑念からと、アメリカのマスコミは世論を煽った。日本海軍の戦艦に対抗するには、大西洋艦隊の戦艦はパナマ運河を通って、大西洋から回送しなければ、の危機感から軍拡に走った。

筆者が思うに

アメリカと言う国は、何処かの国を仮想敵国にして、戦って勝つ事を目標に軍備を整える、

戦争好きだ、というのは本当だと感じた。

★そして1924年(大正13年)『絶対排日移民法』を制定し、日本からの移民を排除し始めた。絶対排日移民法の制定の6年前にアメリカ政府の意向を組んで、対米移民の自主規制をしたが、ヨーロッパ系の移民を促進する一方での排日は人種差別に他ならない。

★最高潮に達した排日論も、第一次世界大戦で、日本が連合国側で参戦、ドイツ唯一のアジアの植民地であった青島要塞を陥落させ、信託統治の南洋群島の攻略に、実亮力を発揮して、排日世論も収まった、かに見えた。

だが、ヨロッパ戦線でドイツの『U・ボート』(潜水艦)の活躍でイギリスの輸送船が壊滅的な打撃を受け、ヨロッパ戦線の英国軍は食料が届かず、干上がる寸前で日本に水雷艇の応援を求めた。 

★水雷艇は、磁気機雷の防衛の為に木造の小型で、日本から地中海への回送は、ロシアのバルティック艦隊のアジアの日本海に持ってくるのと同じ位の難事業であった。

それを、無事回送して、U・ボート軍団を壊滅させた。 

この実績を賞賛する、と同時に連合国が総力を挙げても退治できなかったU・ボートを撃滅する日本海軍に恐怖を感じたのであった。

★だが、その功績もあり、戦後処理の国際連盟の常任理事国になった、初の提案が『人種差別の撤廃』であり、多数決の安保理で成立させた。

だが、アメリカが異を唱えた。

「こんな重要法案は多数決の安保理でなく、『全員一致の総会で決めべきである』と否決、廃案にしてしまった。

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世界大恐慌

★第一次世界大戦(1914年から1918年)は、ドイツの降伏で連合国側の勝利で終わった。

欧州一帯は大戦で破壊し尽され、破壊から取り残されたアメリカ大陸は復興景気に沸いて、最早、バブルであった。 湧きに沸いた復興景気も、欧州の復興が進んで、物不足も収まり不況が忍び寄ってきた。

★1929年10月24日の午前10時25分。ニューヨークの株式市場にてゼネラルモーターズの株価が80セント値下がり・・・。これを機に市場は売り一色となり株価が大暴落することになった。

わかっているだけでも株式関係者11名がこの日、自殺をし、これをきっかけにアメリカの株価は下がり続け、やがて、この景気悪化は世界同時不況へと広がっていくのですが、この世界大恐慌の原因はどこにあったのでしょうか?

★最早アメリカは、バブルである。

広い家を建ててみたり、当時はお金持ちしか持てなかった車を購入してみたり・・・。

また、増えたお金はもっと増やそうと株に手を出す人も多くでます。

★アメリカの企業の株を買っていたのは、アメリカ人だけではなく世界の投資家の多くが買い捲った。

戦争で疲労した自国の企業の株を買うよりも、順調そうに見えるアメリカ企業の株を買ったほうが儲かりそうですからである。

もはやアメリカ企業の株価は本来の企業価値など関係なく、どんどん上がってしまう銘柄も出てくるのです。

★そんな時代は長くは続く筈はない!

★当時のアメリカの好景気の要因は第一次世界大戦によってヨーロッパが疲弊していたこと。そのヨーロッパが復興してくると、アメリカでは経済の雲行きが怪しくなっていきます。

まずは、農業。ヨーロッパ農業が復興してくるとヨーロッパからのアメリカへの注文が減り出したので。

★自国である程度賄える物は、アメリカに頼る必要もなくなる。

さらに、冷凍運搬のシステムが当時普及し始める。

こうなると安いラテンアメリカの肉や農産物が、どんどんアメリカに入ってくるようになってくる。

★冷凍システムが発達してくると、腐敗の心配もなくなるから、安いラテンアメリカ産も物が売れるようになってくる。

★また、干ばつなども農業不振に追い討ちをかけます。これで、農業恐慌がアメリカで起きる。

★次に工業。こちらも同様にヨーロッパの復興によりアメリカ製品が売れなくなっていきている。

さらに、アジア諸国の安い労働賃金の国もアメリカにとってのライバルとなっていきます。これで工業も不振に陥るのです。

アメリカ発の大恐慌が保護貿易に走る。

★そして輸出。アメリカ政府は、当時かなり高い関税を輸入品にかけていました。

当然のように各国もこれに対抗しようとアメリカからの輸入品に高い関税をかけます。

アメリカにとっては、関税を高くすれば、安い輸入品が入ってきづらくなり、自国の産業を守れるというメリットがありますが、相手国にまで高い関税をかけられたら輸出品が売れなくなるのですね。これで、アメリカは輸出不振にも陥ります。

★そして、ついにその日がやってくるのです。株価大暴落。ゼネラルモータースといえば、超が付く有名企業である。

アメリカを代表する企業の株価下落に吊られるようにUSスティールという鋼鉄メーカーの株も下がり、次々に他の企業の株価も落ち続ける。

★これが「暗黒の木曜日」といわれる10月24日の出来事です。週末にはいったん持ち直しますが、週明けには売り一色!!株価大暴落となるのです。

何故!

アメリカの不況が世界大恐慌にまで発展していったのか?

★まず、第一次世界大戦で敗戦国となったドイツが直撃を受ける。

これは、「当時ドイツに対してアメリカが資本を輸出してあげるから、ドイツは経済を復興させて、しっかり賠償金をイギリス、フランスに対して支払いなさいよ」という約束がなされていたのである。

★なぜ、アメリカがドイツにそんなに優しいのかというと戦争中にアメリカはイギリス、フランスにお金を貸していたのです。イギリス、フランスは賠償金貰って経済が立ち直ったらお金をアメリカに返してねということですね。

経済のブロック化

隔してブロック経済は始まった。

当時の世界の基軸通貨は英国のポンドであった。

満州、シナ大陸に進出

アメリカの市場を閉ざされ日本なシナ大陸に市場を求め、ロシアが日露戦争以前に清朝から奪っていた満州の権益を譲って貰い

満州事変からシナ事変へ、

アメリカの対日挑発が続く、

ハル・ノートと称する宣戦布告

ハル・ノートとは?

★昭和16年12月8日、日本は米国との開戦に至った。

太平洋から東南アジア、インド洋にいたる広大な海洋を舞台とし日本は史上例を見ない大戦争を戦った。

そして4年にも及ぶ「大戦争」は最終的に昭和20年8月15日、日本の敗戦によってその幕を下ろした。

★しかし何故日本は国土の広狭・資源の有無・を無視してまで「日米開戦」に踏み切ったのか、常識では考え難いがそれらに関係無く日本に開戦を選択させるべく仕向けたアメリカの『責任』がある。

★「アメリカが日本に送ったのと同一の文書を他国に送れば非力なモナコ公国やルクセンブルク公国でさえ必ずアメリカに対して武力をもって立ちあがっただろう」これは東京裁判でのパール判事の言葉である。

勝ち負けを度外視しても開戦を選択せざるを得ない理由こそがまさに『ハルノート』である。 『正式名称、合衆国及び日本国間の基礎概略』

開戦前夜の昭和16年11月26日アメリカ国務長官 コーデル・ハルが日本政府に対して通告してきた文書で、これを読んだ日本国はアメリカからの最後通告と解釈したのである。

当時日本はアメリカ・イギリス・支那・オランダによる対日経済封鎖により石油・ゴム・といった資源のほとんどを供給停止されていた為に、南方進出を真剣に考えていた。

★東南アジアの国々はほとんど欧米の植民地である。

その国々を独立させ対等貿易を行えば、日本に活き残る道はあった。

その為には、アジアから欧米の植民地支配を排除せねばならないが、欧米と開戦できる国力は無い。

そんな状況下にありながらも日本は日米開戦を回避すべくぎりぎりの条件を提示して日米交渉の妥結を願った。

その条件「甲案」とは

1・ 日支(日本と支那)に和平が成立した暁には支那に展開している日本軍を2年以内に撤兵させる。

2・ シナ事変(日中戦争)が解決した暁には「仏印」(フランス領インドシナ)に駐留している兵を撤兵させる。

3・ 通商無差別待遇(自由貿易)が全世界に適用されるなら、太平洋全域とシナに対してもこれを認める。

4・ 日独伊三国同盟への干渉は認めない

と言う内容であり、更に「甲案」での交渉決裂に備えて日米戦争勃発を未然に防ぐ為の暫定協定案として「乙案」も用意してあった、乙案は下記の内容である。

1・ 欄印(オランダ領インド=現インドネシア)での物資獲得が保障されアメリカが在米日本資産の凍結を解除し石油の対日供給を約束した暁には南部仏印から撤兵する

2・ 更にシナ事変が解決した暁には仏印全土から撤兵する。

要するに日本に対する経済封鎖が解除され、石油などの資源が供給されれば南方に進出する必要性は無くなる。

★それと引き換えに、日本も全面撤退に応じるという内容である。

この事については、駐日大使ロバート・クレーギーが帰国後政府に提出した報告書で「日本にとって最大の問題は南方進出では無く、耐え難くなりゆく経済封鎖を取り除く事だった。とかかれており日本の南方進出が「領土的野心」等では無かった事を証明している。

★東京裁判で、アメリカ人のブレークニー氏も、「日本の真に重大な譲歩は甲案であり、甲案において日本の譲歩は極限に達した」と言っている。

日本側は対米交渉において、これ以上は応じれない、譲歩を示したと言う事である。

しかしそれに対しアメリカは11月7日に「甲案」、11月20日に「乙案」をも拒絶し11月26日に日本が到底受け入れる事の出来ない「ハルノート」が提出された。

ハルノートは以下の文書である。

1・ 日本軍の支那、仏印からの無条件撤退

2・ 支那における重慶政府(蒋介石政権)以外の政府、政権の否定(日本が支援する南京国民政府の否定

3・ 日独伊三国同盟の死文化(同盟を一方的に解消)

日本に対し大陸における権益を全て放棄し、明治維新前の日本に戻れと言う事である。

江戸時代アメリカに武力で開国を強制的にせまられて以来、欧米列強に揉まれながらも日本は血の滲む努力の末やっと対等になりつつあるところで「全てを放棄しろ」である。

こんな訳の解からぬ条件を突き付けながらも、経済封鎖の解除には一言も触れて無い所などは、さすがは「詐欺師国家」アメリカである。

日本は生存権を賭けて日米開戦の道を選択したと言うより、開戦という選択を取らされたのである。

★資源・物資・大陸での正当な権益・アメリカにある日本の資産・これらを放棄しろと言う事は「死ね」と言うのに等しい事である。

アメリカ流の屁理屈で言わせてもらえば日本の選択した『開戦』という道は自衛手段であり日本には一切の戦争責任は無いと言える。

★これらの構図は現在も続いている。

常に対象国を挑発し、事の責任をなすりつけるやり方は最近中国との間で起きている。

中国の嫌がることを徹底的にやり、頭にきた中国がアメリカ国債をバカバカ売却する。

大量にアメリカ国債が売られるとドルが暴落する。

ドルが地に落ちればアメリカはデフォルトする。

その責任の全てを中国になすりつけて、自分は被害者を装い、まんまと借金を踏み倒す。

日本は金が余って運用先に苦労をしている

しかし、日本の金融業界に資金は余って、運用先に困っている。 アメリカは消費が多過ぎ、貯蓄は少ない。国債を購入してくれる先を探しているので。

★いかにもアメリカの考えそうなことだ。

★敗戦後東条英機は処刑されたことになっているが、ヒトラー同様私は生きていたのではないかと思う。

うまく説明できないが、東条の二男は三菱重工の社長になっている。

三菱財閥と天皇家の関係、昭和天皇と東条の関係を考えると、東条を処刑するとは考えられないのだ。

★処刑後、東条の遺体は家族のもとには帰っておらず、航空機で太平洋に散骨したことになっている。

限りなく怪しいのだ。

グアム、サイパン、ハワイ、もしくは南米のどこかの片田舎でひっそりと暮らしていたのではないかと思えてならない。

★最後に東条の処刑前の手記がありますのでご紹介する。

「英米諸国人に告げる」

今や諸君は勝者である。我が邦は敗者である。

この深刻な事実は私も固より、これを認めるにやぶさかではない。

★しかし、諸君の勝利は力による勝利であって、正理公道による勝利ではない。

私は今ここに、諸君に向かって事実を列挙していく時間はない。

しかし諸君がもし、虚心坦懐で公平な眼差しをもって最近の歴史的推移を観察するなら、その思い半ばに過ぎるものがあるのではないだろうか。

我等はただ微力であったために、正理公道を蹂躙されたのであると痛嘆するだけである。

★いかに戦争は手段を選ばないものであるといっても、原子爆弾を使用して無辜の老若男女数万人もしくは数十万人を一挙に殺戮するようなことを敢えて行ったことに対して、あまりにも暴虐非道であると言わなければならない。

もし諸般の行いを最後に終えることがなければ、世界はさらに第三第四第五といった世界戦争を引き起こし、人類を絶滅に至らしめることなければ止むことがなくなるであろう。

諸君はすべからく一大猛省し、自らを顧みて天地の大道に恥じることないよう努めよ。

「日本同胞国民諸君」

今はただ、承詔必謹する〔伴注:終戦の詔を何があっても大切に受け止める〕だけである。私も何も言う言葉がない。

★ただ、大東亜戦争は彼らが挑発したものであり、私は国家の生存と国民の自衛のため、止むを得ず受けてたっただけのことである。

この経緯は昭和十六年十二月八日の宣戦の大詔に特筆大書されているとおりであり、太陽の輝きのように明白である。

ゆえにもし、世界の世論が、戦争責任者を追及しようとするならば、その責任者は我が国にいるのではなく彼の国にいるということは、彼の国の人間の中にもそのように明言する者がいるとおりである。

不幸にして我が国は力不足のために彼の国に敗けたけれども、正理公議は厳として我が国にあるということは動かすことのできないことである。

力の強弱を、正邪善悪の基準にしては絶対にいけない。

人が多ければ天に勝ち、天が定まれば人を破るということは、天道の法則である。

諸君にあっては、大国民であるという誇りを持ち、天が定まる日を待ちつづけていただきたい。

日本は神国である。永久不滅の国家である。

皇祖皇宗の神霊は畏れ多くも我々を照らし出して見ておられるのである。

諸君、願わくば、自暴自棄となることなく、喪神落胆することなく、皇国の命運を確信し、精進努力することによってこの一大困難を克服し、もって天日復明の時が来ることを待たれんことを。

日米開戦

★日米は太平洋を舞台として死力を尽くして戦った。

初戦こそ、12月8日ハワイの真珠湾に停泊中の、アメリカの東洋艦隊を壊滅させ、12月10日にはマッレー半島沖で、英国自慢の『不沈戦艦』と呼ばれるプリンス・オブ。ウエルスと、友艦、レパレスを撃沈、イギリス東洋艦隊の主力も壊滅さす。

翌、1942年15日にはイギリスのアジア統治の拠点、シンガポール要塞陥落。

続いて香港島を占領。 続いて日本領・フリッピンの首都、マニラを占領、米兵の逃げ込んだバタア―ン半島、突端に位置するコレヒドール島要塞も降伏で、予想外の捕虜の多さで捕虜の食糧調達に苦労する。日本の兵站は、元から不足していた。

日本軍の兵站輸送にも困難しているのに、この捕虜の食料にも窮し、司令官が、「食うに困って始めた戦争で、捕虜の食料まで心配する等は、まじゃくに合わない、」とボヤイタそうである。

★2月14日にはオランダ領で油田地帯のパレンバンを落下傘部隊の奇襲攻撃で占領。

日米開戦、参ヶ月で

★電撃作戦は成功し、南方の油田地帯を手にし、成功に見えた作戦は、日本の破滅の序曲であった。

筆者の見解

★ここで停戦。講和条約の準備にいるべきであった。

★大日本帝国の条件は、領土拡張ではない。 戦略物資の禁輸を解除、通常の取引を望むだけである。 

多少の駆け引きはあっても、何と成功の見込みは大であろう。悔いは今も続く。

だが、12月8日の開戦以来、翌年の2月14日には、オランダの石油施設は、落下傘部隊の奇襲攻撃で、念願の石油基地を手にしたのである。

★開戦前のハル・ノートを突き付けられた時には日本の石油備蓄は三ヶ月分しかなかった、のをメキシコ油田は買いつけてあった石油を、アメリカの眼を盗み、パナマ運河の封鎖を突破して、幾隻かのタンカーが日本に到着し、六ヶ月分となった。 この三ヶ月分の虎の子の石油で進軍ができると喜んだ時に、我が方は石油資源が欲しくて始めた戦である。

★『石油資源が手に入った現在、我が国に領土的野心はない。で講和の申し入れをしろ』、

等は酷であろうか?あまりの快進撃の成功で、目先が狂った、と、しか言いようがない。

しかし、明治の将軍達は、前線にいながら国債の売れ行きを心配したそうである。

この緒戦の参ヶ月の快進撃は予想を超えた。

★日本の連戦連勝の快進撃を続けた日本軍だが、赤道を越えてガダルカナルまで入った頃には、延びきって武器、弾薬、食糧の補給は限界に達した。

国力の差は如何ともし難く、延びきった補給が絶たれ、多くの兵士は銃弾に当たって死ぬのではなく、食糧の補給は途絶え、餓死の敗退である。 史上まれに見る悲劇であった。

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★続く、ミッドウェイ・海戦で虎の子の空母機動部隊の多くを失った。 失った空母の艦載機は、帰る母艦を亡くし、ミッドウエイの海に落ちるより、道連れにせんと、体当たりをする獲物を探す、彼等末路は涙なくしては語れない。 空母と歴戦のゼロ戦と、パイロットを失った日本海軍は、坂道を転がるように敗戦へと続いた。

★この時期のマスコミは、朝日新聞を、全・新聞は「筆を揃えて、戦果を称えて、大日本帝国の弥栄を称えた」。 

『マスコミも少しは反省しろ!』。『反省は猿でもする』、だが、日本のマスコミはマッカサ―に洗脳され、マスコミ、野党は、今に至ってもマッカサ―史観を捨てきれないで、集団的自衛権まで否定する野党にマスコミえある。

★『戦後レージムからの脱却』を唱えたのが安倍総理ただ一人である

★所詮、経済力の日本の20倍とか30倍と言われ、沈めた軍艦、落として飛行機より、新たに造られた飛行機、軍艦のほうが遥かに多かった。

開戦前、「我に精鋭4000機あり」、豪語した頃、アメリカは民間パイロットが10万人もいた、と聞く。 これが志願兵として参戦し、工業力の差で、航空機は増産され、続々と戦線に送られるのだ。

★『玉砕』と言って、日本軍は全滅しても降伏はしない。先ず、組織的戦闘能力が亡くなった時には、将軍(総司令官)が、切腹自殺する。 残された将校が残った兵を指揮して最後の突撃をする。生き乗った兵士は山、または洞窟に籠ってゲリラ戦を行う。 下士官、兵士が一人でも生きている内は、ひとりでゲリラ戦を戦う。

そこで、アメリカ兵は「降伏勧告をするが」、洞窟に籠って抵抗する日本兵を最後のひとりまで射殺して戦闘は終了する。 世界の戦史に例をみない。

★この戦争もポツダム宣言を受託する、という『玉音放送』で、戦争は終結、日本本土に進駐したものの一発の銃声も聞かなかった。 

あの激烈な玉砕するまで戦った日本軍は、どこに隠れてゲリラ戦を戦うかを恐れた。

★進駐して、数日後に占領軍の司令部に天皇陛下が、通訳一人を連れてマッカサ―司令官を訪問した。

マッカサ―は内心、喜んで。天皇を逮捕するには、宮城の警備に近衛師団二個師団の守らているのは事前調査で解っていた。

★彼等がどんな抵抗をされるかを、危惧していたにも関わらず、お目当ての天皇が、ひとりで飛び込んで来たのだ。 直ぐMP(憲兵)に逮捕の準備をさせ、

『命乞いか?亡命希望か?』と、尊大に構えて待つ。

★陛下は開口一番、

「ポツダム宣言に、戦争指導者を、戦争責任を裁判で問う」と、聞きましたが、

「朕(天皇配下自身)が、最高指導者で、彼等は朕の名に従っただけ、責任は全て朕にある。極刑(死刑)でも甘んじて受ける」、というのだ。

世界戦史に例を看ない、この発言に驚き、傲慢な態度を一変、臣下の態度で、「陛下はお疲れのようだ、コーヒーを差し上げ、休んで頂け、部下に命じた。

★天皇陛下は、さらに、持参した包みを解き、「これが朕の自由になる資産の全てである。これを閣下に預けるので、家も衣類も焼かれ、日々の食糧にも窮している8000万に人民に、閣下の御力で食料を与えてくれ」、と頼むのだ。

筆者の見解

世界戦史に例を見ない指導者であり、日本社会の特徴である。

★第一次世界大戦に敗れたドイツを見ろ!

ドイツ帝国の国王は、人民による、敗戦の責任を追及され、ドイツ国内にいたたまれず、オランダに亡命、かの地で死んで墓さえもない、末路である。

この日独の現在を比較して見ろ! 

戦争責任は、ヒットラーひとりに押し付け、ドイツ国民は被害者である、の態度だ。

★識者と称する方々は、韓国に阿って、戦後処理の謝罪はドイツを見習え、というが、第一次世界大戦に敗れたドイツは、敗戦の責任を皇帝に追及、国内にいたたまれず、オランダン 亡命,かの地で客死していて墓もないと聞く。 それと比較して頂きたい。

★この一言で、マカーサーは、完全に臣下の礼を採った。

「日本の天皇配下とは、そういう存在でしたか、私も天皇の臣下に産まれたった」。

「なんなりお申し付け下さい。私にできる事は何でも致します。」

あらゆる○○の制度を利用した食糧援助が始まり、年度替わりの4月には銀シャリの飯には程遠いが、脱脂粉乳に次、キュウバー糖(砂糖)からなんば粉(トウモロコシの粉)、

メリケン粉と呼ばれた小麦粉等は「こんなに旨い食べ物があったのか?」と、思うほどであった。

我々国民も脱脂粉乳を『家畜の餌だ』といいながら、調理法を研究しながら我々の胃袋に消え、飢餓状態は脱した。

夏の頃には、芋混じりの飯なら腹一杯に食えるようになってきた。

★だが、このマッカーサーの処置は、天皇陛下に位負けしたマッカサ―の温情ではない。

彼はアメリカの軍人で最高司令官である。日本の占領政策を順調に実行する為には天皇陛下を利用するに如かず。であった。 その証拠が「皇室の弱体化であり、宮家の減少」であった。 現在は、今上天皇、今上天皇の弟、その子と三代は続くが、皇統の持続に不安が状況である。日本人は世界の諸国の思惑には、『刮目して見るべきである』。

筆者の意見

マッカーサーの温情でない事を『刮目して見よ!』。

彼はアメリカの軍人である。任務追行の手段として利用したに過ぎない。

然るに日本人、中でもマスコミは、彼等の政策を善意と信じ、神の如く崇めたのである。

そして置き土産の憲法を後生大事にしながら、反米に現を抜かす、不思議な動物(組織)である。

★歴史とは、昨日の事は思い出し、明日の参考にする事は自分の歴史から未来を予測する事と同じだと信じる。

日本に限らず世界の歴史を学び、将来を予測の参考にするには何処まで遡るか、が問題である。例えば、人類の発生、縄文時代も歴史で、当時の日本人の食生活を調べるだけでも一流の論文になる。 神話時代、王朝の成立、貴族政治、武家政治等々で思案すればきりがない。

大航海時代は植民獲得競争の幕開け

筆者は一応、ヨーロッパ文明(地中海の沿岸諸国)に始まって、大航海時代は植民地獲得競争の始まりでもある。以後どのようしてアジア諸国が植民地にされたか検証しえみたい。

★日本で大航海時代の始まりを感じたのが、1415年、ポルトガル船が種子島に漂着、鉄砲を持ち込んだ天文十二年(1543年)8月25日。

オランダの風車

今では『牧歌的風景』の代表見たいな長閑なオランダの風景も、当時は先端技術の風力を動力として大型製材機を回し、人力では扱えない巨木を製材し、大型船を製造、大航海時代に突入し、且つ貢献した。

★一方の日本では1567年(永禄10年9月)岐阜城を築城「天下不武」を宣言。

耶蘇の布教を許可、西洋文化、技術の取り入れを促進する。

また、ザビエルが日本に付いた日は1549年4月15日。織田信長が耶蘇の布教を許し、西洋文化、技術の取り入れ日本の近代化を促進させた。

信長の『天下不武』を宣言、と並行して日本の近代化を促進したのである。

★その信長は、部下の明智光秀の謀反によって討死したのが、1582年(天正10年6月21日)早朝であった。 毛利攻の司令官・羽柴秀吉が信長の死をいち早くキャッチし、毛利氏と和睦し、全軍を撤退本拠地のある姫路城に逃げ帰った。 これを後世の人は『秀吉の大返し』と言った。 

姫路城に全軍を集結、再編成信長の遺臣の呼びかけ、「主君の仇、光秀討伐の旗を揚げた』。

1582年(天正10年)6月13日、光秀を京都大阪の境、淀川、木津川、宇治川の三川合流し、東に小高い天王山がそびえた狭あいに地で両軍は激突、秀吉権が大勝して、逃げる光秀を小栗栖で討ち取った。 

信長の遺臣達を配下にいれ、信長に死後動き始めた敵を平らげ、信長の後継者の地位を確実との世評はほぼ定まった。

★最高勢力は北陸平定を目指し越後(新潟)上杉謙信と対峙していた柴田勝家がやっと帰国、信長の跡目相続を決める清州会議で秀吉、勝家の対立は表面化、秀吉は領土の配分で本拠地長浜城を勝家に譲った。

安堵した勝家は人領の北ノ庄(福井県)に帰った。北ノ庄の冬は雪に閉ざされ身動きはできない。 その間に秀吉は近隣を制圧、勝家の養子、○○が預かる長浜城攻める姿勢を見せ、○○降伏長浜城を取り返した。

怒った勝家だが冬は雪に埋もれて身動きはできない。

★大東亜戦(黄色人種と白人と戦いあった)。

日本名「大東亜戦争」で、日本はアメリカに敗れて占領され、占領軍の命によって「太平洋戦争」と命名された。

そして日本は明治維新以降での近代化により国力が増強し、「その国力を使って平和に暮らす周辺諸国を侵略し、領土を広げた悪い国だ」と決めつけた。

隣の韓国と中華人民共和国は、戦争終結以来70年以上経てもなお、過去の侵略に対し「謝罪をしろ!補償をしろ!」と言い続けている。1949年に創立した国家が1945年終結した戦争にどうやって参戦したのか不思議である。

★一方でこの大戦はアジア諸国を植民地支配から解放と独立をもたらした。

中、韓両国以外の全ての国が感謝している。これら独立した国家の経済は発展し、元宗主国にも市場を提供し、世界の経済発展にも貢献している。

「本当に日本は、平和に暮らす隣国をただ単に侵略した悪い国家だったのか」を検証してみたい。

★歴史に「IF(もし)」はないというが、「もし」を取りいれ、仮説で歴史を創ってみると世界史に新たな発見が想像される。

一般に太平洋戦争(日本名・大東亜戦争)は昭和16年12月8日未明、

「本八日未明帝国陸海軍部隊は西太平洋上に置いて米国及び英国と戦闘状態に入れり」。 

この発表の数時間前に日本軍は真珠湾を奇襲して、アメリカ東洋艦隊に壊滅的打撃を与えた狡い国家と断定されている。これに対し、日本外務省は「当日は日曜日で役所が休みだった」等の言い訳をしている。だが、各種資料には「アメリカは建国以来、約200回の戦争のうち、宣戦布告したのはたった3回だけ」と書かれている。即ちアメリカにとっては、戦線布告をしない奇襲攻撃が戦争の常道であり、アメリカの言う「日本の騙し打ち」というのは間違っている。

当時の世界の情勢を俯瞰して見よう

開戦当時、アジア全域はおろか、白人の住む国以外は全て白人(地中海の沿岸諸国)の国の植民地であり、彼等有色人種は白人の奴隷であった。

アジア諸国の西端インドは、紀元前2600年頃から前1800年にインダス川の流域に栄えたインダス文明として栄えた、古代国家であった。

1498年にヴァスコ・ダ・ガマがカリカット(コーリコード)へ来訪し、1509年にディーウ沖海戦でオスマン帝国からディーウを占領し、1511年にマラッカ王国を占領してポルトガル領マラッカ(英語版)を要塞化することに成功。ルトガルはインド洋の制海権を得た。  

このことを契機に、ポルトガル海上帝国は沿岸部ゴアに拠点を置くポルトガル領インド(1510年-1961年)を築いた。1620年、デンマーク東インド会社がトランケバルにデンマーク領インド(1620年 – 1869年)を獲得。1623年のインドネシアで起きたアンボイナ事件でイギリスはオランダに敗れ、東南アジアでの貿易拠点と制海権を失い、アジアで他の貿易先を探っていた。

★ビルマ(現財のミャンマー)は、1044年、南詔支配下にあったビルマ族がエーヤーワディー平原へ侵入してパガン王朝を樹立した。パガンは最初小さな城市であった。

マレーシア、シンガポールは「英国領」。マレーシアと、シンガポールはジョホウル水道と呼ばれる狭い海峡を挟んだ都市国家がシンガポールであった。

マレー半島は大戦中はイギリス領である、シンガポールにはイギリスのアジア征服の拠点、シンガポール軍港があった。

ここでマレーシアの過去を簡単に振り返って見たい。

★インドシナ半島のベトナム、ラオス,カンボジアは、「フランス領」。「仏領インドシナ」と呼ばれ、インドネシア(南洋諸島)は「オランダ領」で「蘭印」と呼ばれた。

そして、フィリピンは『米西戦争』と呼ばれたスペイン領キーウバーの独立運動に介入、勝利し、キュウーバ―は反米を掲げて独立、フリピンはアメリカ領となった。

「アメリカ領」であった。

★大東亜戦争が始まり、フィリピンだけが「この戦争でアメリカに協力すれば、勝利した後に独立国させる」とアメリカ政府の約束を取り付けたのである。即ち、アジア諸国の中で独立国は日本とタイ国だけであった。

そのタイ王朝も英仏の領土争いにおける緩衝地帯としての価値で存在できたのであり、本当の意味での独立国は日本ただ一国であった。

中華人民共和国や韓国が何と言おうが、日本人の中にも、これを否定する輩もいるが、誰が何と言っても、歴史の真実である。

白人諸国の繁栄を表す詩

白人の社会を称えた詩「春の朝」 

時は春、 日は朝(あした)、 朝(あした)は七時、

片岡に露みちて、揚雲雀(あげひばり)なの

りいで、

蝸牛(かたつむり)枝に這い、 神、そらにし

ろしめす。

すべて世は事もなし。

神様は天にいます──天下泰平、天下泰平!

*  *  *  *  *

神の仕技を称えた詩で、イギリスの詩人ロバー

ト・ブラウニング(1812~1889年)が、神様は天にいます──天下泰平、天下泰平!と神の仕技を称えた詩である。

言わずと知れたこの神とは、白人の信仰する、カトリックの神(キリスト)のことであり、天下泰平とはその神の下での長閑な平和である。

★当時、イギリスの植民地は世界の四割を占め、イギリスは日の沈まない国と言われていた。

地中海周辺の白人国家と王政や迫害を嫌った人々は、メイフラワー号に乗ってイギリスを脱出し、大西洋を渡って到達したのがアメリカである。

彼等はアフリカをはじめ、アラブ諸国やアジア全土を植民地とし、繁栄の限りをつくしていたのである。大東亜戦争はアジア植民地解放の旗印を掲げ、日米が戦った戦争である。

アメリカ主導の連合国は、植民地の既特権を守る以外のなにものではない。

★一国平和主義では世界に通用しない

一般的に国家統一をすると、勢力を海外に覇権を求めるのが常であり、徳川に滅ぼされた豊臣政権は朝鮮に侵攻している。だが、徳川家康は違った行き方した稀有な人物(覇者)である。

日本国内を統一した徳川家康は、1615年(慶長5年)、元和偃武(平和になった、武器は武器庫に収めよう)と宣言。国を閉ざして鎖国し、260年にも及ぶ世界史上類を見ない平和な時代を築き、江戸文化の花を開かせ、日本独自の文化で繁栄していた。

★次に紹介するのは、幕末の日本を旅行したイギリス人が、当時の日本人を見た感想文である。

★「江戸の下町で、庶民住居は傘をさせば、すれ違えない程の狭い路地に住む住人も、朝顔の花を咲き競わせ、愛でる。二間しかない長屋の台所の壁に、浮世絵の美人画や、街道筋の風景画を壁に張り愛でて楽しむ感性はヨーロッパの貴族と同じだ」

その浮世絵の価格だが、わずか掛け蕎麦二杯分という安価でありながら、その芸術性はルネッサンス画家の作品に多大な影響を与えているというのは驚きの一語に尽きる。

260年の鎖国は繁栄と江戸文化の開花と同時に、260年に亘る泰平の世をもたらした。

★織田信長、豊臣秀吉そして徳川家康が日本を統一した16世紀、地中海周辺諸国中心のヨーロッパは大航海時代、新天地の発見競争が激化し、スペインとポルトガルはほぼ同時に日本に到着した。1543年(天文12年)8月23日、ポルトガル人が種子島に漂着、1549年にはスペインのフランシスコ・ザビエルが到来している。

★そこで両国は、概略な日本地図を示し、ローマ法王にどちらの領土か裁定を仰いだ。法王は日本のほぼ中央に腺を引き、彼等に半分ずつ分け与えた。さらに、ここに住む者は人か獣か?の問いには、キリスト教に改宗すれば人、しなければ獣と裁定したという。

★徳川幕府は、キリシタンがスペインの世界征服の野望の先兵だと気が付き、キリシタンの布教を禁止。従わぬ宣教師は磔の極刑に処し、残りは追放した。怒ったスペインは本国からの応援を得て、日本を占領しようとしたが、戦国時代に鍛えられた武士団の戦闘力、武器(鉄砲)の保有・生産力は世界一で、付け入る隙は何処にもなかったため、日本への侵攻を諦めたという。

★つまり、鎖国をして日本独特の文化が繁栄したのは、世界最強と言われた戦闘力を持つ軍隊があって、初めて可能であったという事である。この事実を、田島陽子氏、福島瑞穂氏、鳥越俊太郎氏等は似非平和主義者だということをよくよく理解すべきである。

★260年後、アジア諸国は欧米の植民地になったが、ただ一国、植民地とならなかった日本に対し、アメリカは先ず交易とアメリカ捕鯨船の基地を求め、ペリー提督率いる4隻の黒船を江戸近郊の浦賀に来航させた。

「鎖国は国是」と断る幕府に、大砲を撃ちこみ、脅しを掛けた。

旗本八万騎と呼ばれ、世界最強の武士団は、関ケ原合戦当時の武器しか持たず、260年の平和により、戦を忘れた幕府の官僚となっていた。

★たった黒船4隻に乗っていたアメリカ陸戦隊を追い返す術はなく、結果として不平等条約の見本のような日米通商条約を結んだのであった。

★隣の大国清朝にも、先ず英国が通商を求めて来航。清朝はお茶が特産で、イギリス人は紅茶を好むため、お茶の買い付けで銀が流失する片貿易を解消せんと、インドの麻から阿片を製造させ、インドの阿片を買い付け、清朝に売る三角貿易を考案実施した。

その結果、清朝には阿片の中毒患者が町に溢れ悲惨な常態になった。

★阿片を禁止した後も、イギリスの密貿易は続き、怒った清朝の役人がアヘンを没収、焼却すると、イギリスは損害賠償を求めて宣戦布告。これが世に言う「アヘン戦争」である。

★産業革命で近代化した装備のイギリス軍に、中世装備の清軍は完敗。莫大な賠償金と各種権益を毟り取られ、争いに便乗した列強に権益を奪われ半植民地の状態になった。この情報は日本にも伝わり、明治維新を促進する一端になったという見方もある。

★明治維新で300諸侯が構成する幕藩体制は変貌、廃藩置県により藩主らは藩籍を返上し、県知事に任命されたものの配下の武士は禄と地位を奪われ、幾ばくかの退職金を貰って、断髪し廃刀。国民皆兵の鎮台兵となる。

討幕の先陣を切って戦った薩摩の島津家、長州の毛利家らの藩主は、将軍職任命の沙汰が下りることを期待していたと思うが、任命されたのは一地方の知事である。

★討幕を先導した薩摩、長州の下級武士も武士の地位は失っている。明治維新を薩摩の西郷隆盛は、西南戦争の敗れ城山で切腹する。大久保利通は禄を奪われた武士に暗殺され非業の死を遂げている。

★この間の事情は彼等の心情を思えば涙無くして書くことはできない。

 明治維新といううねりの中で、個人的野心を満たすために働いた輩もいたかも知れないが、アヘン戦争に敗れた清国の状態を見て、外国に侵略され、植民地にされる悲劇を防ごうと命を賭けた者は多かったことだろう。そのような先人の努力が、今日の日本の繁栄に繋がっていると言える。

★天皇陛下親政の立憲君主国家に生まれ変わり、殖産振興を図り富国強兵が進められた。

日本は、清朝、李氏朝鮮にも、日本の明治維新を見習って、近代化と「富国強兵」を促し、共同で欧米による侵略を防ごうと働き掛けた。

だが、滅亡寸前でも大国意識の抜けない清朝の中華意識は「北荻南蛮東夷西戎」で、「東夷の野蛮人の言う事等聞けるか!」であった。

あまつさえ、朝鮮は『日本は明治維新の改革で近代国家に生まれ変わった』。

との挨拶と、改めて『国交の樹立を求める使者を送った』。

★その回答が「朝鮮国王に謁見したければ、西洋かの猿真似した衣裳を『衣冠束帯』に改め、髷を結って出なをせ!」と追い返した。 

李氏朝鮮は宗主国清の顔色を伺い、また目の前の敵であるロシアの思惑を気にし、一向に要領を得ない。

★明治の開明思想家「福沢諭吉」は、辛亥革命に敗れた孫文以下の同志が亡命してきたのを、生活の面倒から革命の軍資金の面倒を見る等して、明治維新の成功例を教えた。

ここにきて『脱亜論』を発表して、「日本はアジアの悪友と手を切って、欧州と友達になる事を説いた。

★果ては滅亡寸前の清国が朝鮮に出兵、占領。朝鮮は清国の属領で独立国ではないと宣言する。朝鮮は独立国であると清国に認めさせる戦争が日清戦争である。

日本が日清戦争に勝利し、李氏朝鮮は大韓民国として独立を果した。独立はしたものの、朝鮮民族は内紛に明け暮れて国論の統一は進まず、一貫した外交ができずに結局、日本の保護領となった。 

★日韓併合は日本の武力でしたものではない

1909年11月、伊藤博文暗殺の39日後に、韓国最大政党「一進会」が「韓日合邦を要求する声明書」を上奏。以下が、日韓併合を望んだ韓国最大の政党「一進会」の声明文です。

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★日本は日清戦争で莫大な費用と、多数の人命を費やし韓国を独立させてくれた。

また日露戦争では日本の損害は甲午(日清戦争)の役の二十倍を出しながらも、韓国がロシアの口に飲み込まれ、肉になるのを助け、東洋全体の平和を維持した。

韓国はこれに感謝もせず、あちこちの国(清国)にすがり、こっちの国(ロシア)に縋って、外交権が奪われ、保護条約に至ったのは、我々(朝鮮人自身)が招いたのである。第三次日韓協約(丁未条約)、ハーグ密使事件も我々が招いたのである。

今後どのような危険が訪れるかも分からない

が、これも我々が招いたことである。

我が国の皇帝陛下と日本天皇陛下に懇願し、朝鮮人も日本人と同じ一等国民の待遇を享受して、政府と社会を発展させようではないか。

★つまり、日韓併合を望んだのは韓国側なのです。

日本政府は「一進会」の要望を真摯に受け止め、列強と相談しました。日本の負担が増えるのに、列強は日本が韓国を「併合する」ことを承諾しました。

1910年(明治43年)日韓併合条約締結され日本国となった。

韓国の皆様、在日朝鮮人の皆様、韓国併合は武力による征服、植民地化だったのではありません。韓国側にとって不都合な真実ですが、この真実を韓国の国民に教えてください。

日露戦争の近因

★ロシアは不凍港を求め、満州を越え朝鮮半島への進出を狙った。当時、イギリスは阿片戦争に勝利したもの、戦後処理に難航していた。

日本に到達したばかりのアメリカは、イギリスと同様にロシアの東進を何としてでも抑えたかった。特にイギリスは、ロシアの東進を抑える防波堤の役目を日本に期待、日本軍に情報を提供、海軍の増強に援助する事となった。

★ロシアはユーラシア大陸中部の農業国で、長らくモンゴル帝国に支配されていたが、モンゴルが衰退し引き上げると、イワン大帝とリートル大帝の両名君が現れ、近代的軍隊を創設。

ヨーロッパの覇権争いに参加し始める。しかし、この覇権争いは英仏に遅れを取っていたため、ヨーロッパを諦めて、シベリアを東に進み、満州に到達した。

★満州(当時の満州は人の住まない地域「ノー・マン・ランド」と呼ばれていた)には住民は少なく、未開の土地であったが、清朝発祥の徐均族の発祥の地。即ち清朝の母国である。清国から満州の権益を手にしたロシアはシベリア鉄道の完成を急いだ。

北の大国ロシアは、世界一の陸軍国で、同じ世界最強のバルチック艦隊を持っていたが、ロシアは冬になると港は凍って折角の艦隊も役にたたない。どうしても凍らない港、不凍港が欲しくてアジアを南下してくる。 

日露戦争の準備  

簡単に言えば、イギリスは「ロシアが満州に来た!次は朝鮮に来るぞ」と日本を脅した。「強いロシアが攻めてきたら、お前も困るだろう。海軍の増強を手助けするから日本も戦え!」と。

満州を制圧したロシアが朝鮮半島へ侵攻すれば、次は日本だとの危機感は日本も同じで、この話に乗った。

軍艦を無償供与ではく、高額な金を払って買う。イギリスという商売のあくどさには呆れるばかりである。

1899年(明治32年)1月24日 バロー・イン・ファーネス造船所で起工。

1900年(明治33年)11月8日進水。

1902年(明治35年)1月15日から20日まで公試が行われ、3月1日サウサンプトンで日本海軍への引渡し式が行われた。

その費用は、建造費用は船体が88万ポンド、兵器が32万ポンドであった。

(当時の円換算は後日調べて報告する)

3月13日、イギリス、プリマスを出港しスエズ運河経由で5月18日横須賀に到着した。造船総監は黒部広生。初代艦長は早崎源吾大佐。横須賀で整備後6月23日に出港し、7月17日本籍港である舞鶴に到着した。当時の日本の財政事情は困窮を極め、この膨大な戦費を外債で資金調達する苦労は大事業であった。

この外債の膨大な金利は彼等の手に入ったが、後の第一次世界大戦の好景気で国債は償還している。

奉天の会戦

ロシアの陸軍には世界最強と言われるコザック騎兵隊がある。対する我が軍の兵士は260年の泰平で馬に乗れない武士も多かった、という事は国民皆兵で動員された兵士も馬などには乗れなかった。

明治の近代化で慌てて騎兵の育成に係ったが、馬もオーストラリアから輸入し育てたもので、如何にも急ごしらえで、コザックと比べ見劣りのするものだった。

そこで日本騎兵の創業者・秋山好古は逆転の発想で、敵・コザックに遭遇したら馬を乗り捨て、一斉射撃で馬毎なぎ倒す作戦を考えた。当時の陸軍が「魔の兵器」と呼んだ機関銃を大量に買い付け、騎兵の標準兵器とした。

これが大成功でコザックと遭遇した日本騎兵隊が馬を捨て、機関銃の一斉射撃の体勢を取ると、コザックは騎兵の起動力を使って慌てて逃げて出し、ロシア自慢のコザック騎兵隊は奉天の会戦に姿を見せなかった。 

★しかし、秋山将軍はこれに満足せず、騎兵の機動力を利用し満州の荒野を迂回、総勢3千の騎兵を全て敵の裏側から攻めんと、敵の背後を取った。日本の騎兵隊発見の報告に慌てた敵将・クロバトキンは日本騎兵に退路を断たれると、慌てて総軍撤退の命を出し、捕虜2万を残しての退却という結果となり、日本は大勝利をおさめた。

★黄色人種の日本が白人国家のロシアを破った日露戦争に世界は驚愕。世界初の出来事として有色人種に多大な自信を与え、ロシア革命の遠因となった。

日本海海戦

★1853年に浦賀に来航した黒船を見て驚いた日本人が、たった47年で英国から買ったとは言え、黒船の軍艦どうしの戦いで、当時世界最強と言われたバルチック艦隊を日露戦争で全滅させた(1905年)のだから、日本海軍の操艦技術、射撃技術の習得がいかに早かったことか、欧米列強が日本を恐れるのも無理はない。世界戦史に類を見ないほどの日本の圧勝であった。

★遥々バルト海から回送してきたバルチック艦隊は、隻数ではほぼ同数だが、トン数火砲の数は圧倒的に優勢であるにもかかわらず全滅、辛うじて逃げた一隻の巡洋艦は、ウラジオストック軍港に逃げ帰った。

★旗艦三笠には37発もの砲弾が命中し100名あまりの戦死者を出し、舷側に大穴が空いたが沈没は免れた。水雷艇3隻を失う被害もあったが一隻の戦艦も失っていない。日本の大勝利であった。

★日本海海戦の主力艦は全て輸入、旗艦三笠は英国製だった。15年後の1920年(大正9年)には戦艦長門を自国で建艦。たった15年で世界水準の建艦技術と操艦技術を習得したのも驚きであり、世界が恐れたのも無理はない。

日露戦争の勝利が米国に恐怖感を与えた

当時のアメリカのマスコミは、日本軍が当時世界一と言われたロシア陸軍を奉天会戦で破り、同じくバルチック艦隊を日本海海戦で全滅させた事を、賞賛と同時に新たな脅威と感じ、単純なアメリカ人の恐怖心を煽った。

「日本にはバルチック艦隊を殲滅する程の海軍があるが、アメリカはこれに対抗する東洋艦隊は戦艦をもっていない。日本海軍の戦艦に対抗する戦艦は大西洋からパナマ運河を通って来るしかない」と、アメリカのメディアは挙って日米がもし戦えばと報じ危機感を煽った。

筆者の見解

(影の声:アメリカが戦争好きだという噂は当たっているかも知れない)

★これが日露戦争後のアメリカの対日の世論であった。

そこでアメリカは、1924年(大正13年)に「絶対的排日移民法」を定め、日本からの移民を排日し始めた。これが大東亜戦争の遠因であったと信ずる。

★6年前の「絶対的排日移民法」制定より、日本政府はアメリカ国民の意を汲み、日本人の移民を自主規制(紳士協定)するなど日米の融和を図っていた。

しかし、排日の世論は拡大の一途を辿り、働き者の日本人が自力で開墾した農地は所得できない旨の州法が次々と成立する。ヨーロッパからの白人の移民は積極的に受けいれ、黄色人種である日本人を排斥する事は人種差別以外の何物でもない。

★最高潮に達した排日世論も、第一次世界大戦に連合国側として、日本と共に参戦したために些かは収まったかに見えた。日本軍はドイツ唯一のアジアの植民地である青島要塞や信託統治領であった南洋群島も占領するなど進撃は目覚ましかった。

さらに、連合国の要請に応え、地中海を制圧。連合国の輸送を脅かすドイツのU-ボート(潜水艦)対策に、水雷艇等の小艦艇を遠路遥々(ハルバル)地中海まで派遣した。

これは、バルチック艦隊が日本海に来る以上の大仕事であったが、日本の水雷艇はU-ボート(潜水艦)を撃滅に多大な成果を上げた。

★この戦果は賞賛と同時に、ドイツ海軍を打ち負かす実力に成長した日本海軍の危険性を痛感させた。しかし、この功績によって、第一次世界大戦の戦後処理を担う国際連盟で常任理事国に選ばれた。戦果に対する感謝の気持ちの裏側で、アメリカ人は嫉妬と恐怖と危機感持ち、排日思想が再燃することとなった。

★アメリカの対日嫌悪は留まる所を知らず、満州大陸に支出、ブロック経済を何とか乗り切った日本に、1930年(昭和5年)、日本にさらなる難題を持ちかけた。

A(アメリカ)、B(ブリテン英国)、C(チャイナ)、D(ダッチ、オランダ)が戦略物資(石油、鉄鉱石、ゴム、スズ、鉄屑等)禁輸である。

これは実質的な戦線布告である。蒋介石総統夫人、宋・美齢の暗躍と推定する。当時の新聞記事に「宋美齢の外交力は10個師団の兵力に匹敵する」と記載されていた。

★黄色人種の日本がシナの利権を手にするのを防ぐため、同じ黄色人種のシナ人と戦わせ、漁夫の利を求めるなど、人種差別に他ならない。世界を制覇した白人の世界に突然割り込んで、東洋の国、黄色人種の日本人が対等な顔をするのが気に入らない、の一語に尽きる。

出る杭は打たれる

★排日思想が決定的になったのは、安全保障理事会での日本の最初の提案が「人種差別の撤廃」である。

多数決で承認されかけたこの法案は、アメリカが「こんな重要議題は多数決の安全保障理事会でなく、満場一致で可決する総会で議論するべき」と反対し、あえなく否決となった。

★この結果が第二次世界大戦後にできた「国際連合の安全保障会の常任理事国には拒否権」ができたと推察する。

これにより日米の対決は決定的になったのである。

★1929年(昭和4年)アメリカの下院議員ホーム氏とスム―トス氏の両氏が、自ら経営に関与している会社の業績アップの為に、ホーム・スム―ト法提出すると発表する。

この法案は外国製品に高額な関税を掛け、外国製品を完全に排除するものである。

こんな保安が通過知れば、世界の貿易は完全にストップするとニューヨーク市場の株価は暴落し、日本も世にいう昭和の大恐慌が勃発し、世界経済は同時に大不況に突入した。

★主要国は自国の経済圏を封鎖し、ブロック経済とする対策を取った。当時、イギリスは「大英帝国」と称し、植民地を含め英国の領土は世界一で、囲い込まれた「スターリング地域」と呼ばれるポンドを通貨とした世界最大の経済圏が生まれた。

アメリカはアメリカ大陸を中心にドル圏、独、仏もそれぞれの経済圏を創って、世界はブロック経済同士の争いとなった。

日本の経済圏とシナ大陸の実情

★清朝末期の満州は「人の住まない地」ノーマン・ランドと呼ばれた未開の地であったが、その権益は日露戦争に勝利した事で日本のものになっていた。

辛亥革命で滅んだ清朝に替わって、満州の権益を中心に満州国(日本の傀儡)を創立、経済圏を創ってシナ大陸に進出して行った。

★辛亥革命で清朝が滅んで後のシナ大陸は混乱を極めた。国家の権力はなくなり、各地で駐屯する部隊の将校が兵を連れ脱走、小規模な集団は匪賊となって、山城に籠って収穫期の農村を襲って略奪、女性を強姦、拉致して連れ帰り一村を築き軍閥として地方を支配した。

兵士以外に事務官を持つ様な軍閥は地方政府を制圧し、無力となった地方政府の首長を脅し、占拠した軍閥の将軍が実権を握り、住民に税金を掛け、配下の数万もの兵を養う大軍閥となって地方に君臨した。

中でも有力だった孫文らが、革命を起こし、民族の独立を目指したのが辛亥革命(1911~1912)である。

この当たりの事はイギリスの作家・パールバックがシナ大陸の農民の生き方、軍閥の生長過程を克明に観察し、『大地』の名で少説にして書き残している。 何版にもなった出版して、世界各国でベストセラーになっているが、私の高校生時代に図書室に入って来ると争って読んだものだが、最近読み直したかったので図書館に行け行け行けばあるので、御一読を勧める。

日米の直接対立が始まる

白人が支配した世界に黄色人種の日本人が躍り出て、白人の牙城に日本が進出した。

そこでシナ大陸では一軍閥に過ぎなかった、紹介石の国民政府軍に武器供与を始めあらゆる援助をし、ブロック経済でシナ大陸の進出以外の道が閉ざされた日本に、さらなる封鎖をすべく戦争を仕掛けた。

ちなみに、蒋介石は日本の士官学校で学び、日本の砲兵連隊に勤務の実績のある人物である。

★日本の将校程度の総司令官の軍隊が、米式装備を持ったといっても勝てる訳はない。

連戦連敗で補給ルートの港湾は封鎖され、止む無く開発した「援蒋ルート」と呼ばれたビルマ国境の山岳を削って造った道も日本軍の爆撃で破壊され、修復を繰り返す羽目になる。

★困ったアメリカ軍が思い付いたのが戦闘機を持たす事である。しかし、飛行隊の派遣となればパイロットはもとより飛行場の建設、地上勤務の戦備士の養成がいる。

そこで考えたのが退役軍人を義勇軍として100名派遣することであったが、退役パイロットだけでは足らず、わざわざ現役軍人を退役させフライイング・タイガーと命名した航空隊をシナ戦線に投入した。

★だが、日本航空隊は完成間もない最新鋭機ゼロ戦の初陣で、アメリカが自慢するカーチス戦闘機を空中戦でバタバタと撃ち落とした。これが事実上の日米開戦である。

この時の実績が日本に対米戦争へ踏み切る自信を与えたとの説もある。

★アメリカも負けて引き下がる訳にも行かず、「シナ大陸、仏印はじめ世界中に展開、駐留する日本軍の完全撤退」という受ける事のできない条件を付け、「ハル・ノート」なる日米開戦の最後通告を出している。

ハル・ノートと言う名の最後通告

しかし、真珠湾軍港の奇襲でアメリカ東洋艦隊の主力は撃沈、続けてフィリピンの首都マニラの陥落後、アメリカ兵数万はバター半島要塞に逃げ込む。司令官マッカーサー大将は、家族共々オーストリアの米軍基地の逃亡。部隊を再編成し1年後から反抗作戦を開始する。

★初戦で英領マレー半島の北部のコタバルに敵前上陸した、陸軍部隊は連戦連勝の快進撃で55日の進撃で英国の誇るシンガポール軍港の対岸に到達。猛砲撃を浴びせ、耐えきれずイギリス軍は白旗を掲げて降伏、シンガポールは陥落。

開戦直後の12月10日、イギリスは風雲急を告げるアジア防衛の為に、世界に誇る最新鋭戦艦プリンス・オブ・ウェールズと同レパルスをシンガポール軍港に展開する。しかし、マレー半島沖で日本の航空隊に発見され、数時間の戦闘の結果沈没の憂き目に合う。

英国の名宰相チャーチルが「日本に此れだけの戦力があったのなら、我々はこんな要求(ハル・ノート)をしなかった」とチャーチル回顧録で語ったそうである。

★つまり戦力の誇示は必要不可欠なものである。

現在の北朝鮮が、国民を貧困のどん底で、飢えに苦しませも、核開発をし、大陸間弾道弾の開発を急ぐのも、その延長線上である。

筆者の見解

「強い相手とは喧嘩はしないで逃げる」は世界共通である。オランダ落下傘部隊の奇襲で

油田地帯を放棄、逃げ去った。初戦は日本の勝利であった。この時直ぐ停戦に持ち込まなかったのが日本の大失敗である。

★戦前の日本は「我らには鍛え抜かれた精鋭が4千機ある」と豪語したが、ミッドウエイ海戦で失った空母は改装で間に合わせたが、パイロットは訓練時間不足で補充が追い付かない。対するアメリカの初戦の保有機数は日本と大差はなかったが、民間パイロットは10万人もいたのだ。開戦の報を聞くや、彼等らは争って飛行隊に志願する。

筆者の独り言。

2度とアメリカと戦争をしたくない。いざとなれば資源を外国に頼らず国内で賄う。

潜在国力が比較にならない。ならば日米同盟命を結ぶのが一番だと信ずる。

事実、これは『日米安全保障条約』と、なっている。

★アメリカとは宣戦布告の時間がずれたとの意見もあるが、アメリカは建国以来200回も戦争をしたが、宣戦布告を行ったのは、3回だと聞いている。つまり、宣戦布告なき奇襲作戦は戦争の常道であったのだ。

★何はともあれ、日米は太平洋を舞台として、死力を尽くし、血みどろになって戦ったのである。

だが、戦が終って「講和条約」が締結されると、お互いに相手の健闘を称え、友情に発展する。

日米は過去を水に流し、友好国として「日米安全保障条約」を結んでいる。

原爆の投下をはじめ、東京大空襲等での民間非戦闘員の虐殺等、戦争中の国際法違反の悪事とは言え、何時までも過去に拘らず、明日に向って前進して行こうではないか。

★これまで考察してきた事実により私がアメリカを憎む気持ちは誰にも劣らない心算だ。しかし、世界の覇権を狙う大国がある限り、アメリカと同盟を組み、世界平和の為に働く以外の道はないと信ずる。

★世界中を相手に戦争したといわれるが、負けたのはアメリカ一国にだけであり、英,蘭、仏は緒戦でノックアウトで、二度と立ち上がれなかった。

筆者の本音は、

★アメリカとだけは戦争をしたくないのが本音かも知れない。

★ヒットラーは敗戦が決定的になった時、側近にこう語ったという。

「アメリカの資本主義と戦った戦いは、ソ連の参戦により国家社会主義のナチは敗れた。だが、間もなく、共産主義ソ連と資本主義のアメリカの戦争が始まる。どちらが勝っても次の敵が現れ、戦争が無くなる事はない」。

★私が直接ヒットラーに聞いた筈はないが、各種の書物を読むうちに出会った言葉で、悪の権化と言われた、ヒットラーの言葉では非常に薀蓄のある言葉だと思う。

★事実、米ソ冷戦で世界の覇権を競ったソ連は40年に亘った冷戦もソ連は、アメリカのレーガン大統領の仕掛けた『スター・ウオーズ』作戦の高額な軍事費の堪えきれずに、共産主義の経済が破綻した。 その後ソ連は『ペレストロイカ』(再構築)運動等で雪崩のように崩壊していった。

結果、「ソビエト社会主義共和国連邦は15の共和国に分解、ロシアはその中での一大国に過ぎない。

しかし、世界一を誇る人口大国のチャイナが、共産主義経済の計画経済を捨て、鄧小平の『豊かになれる者から、豊かになれ』の変則経済で

政治は共産党の一党独裁。 経済は市場経済で、発展するかに見えたが、世界の下請け工場の如く、低賃金で稼ぎ捲って世界二位の経済大国に伸しあがって、アメリカと世界の覇権を争っているのだ。

正に、ヒットラーの予言通りの世界情勢である。

毛沢東の思想の原点と戦略     

(徹底的に分析、将来に備える)。

★毛沢東の基本的思想は?

始めに、

恐るべきか? 勉強不足か? 今回の選挙は『新党ラッシュか?』、『分党ラッシュか?』か、昨年は様々なドラマがあった。

先ず、共産党が独自候補を、他党共闘に変更である。

しかし、共産党が、如何に足掻き,もがいても共産党では、政権にあり付けない、と判ったからだ。

★中華人民共和国の創設者『毛沢東』の基本理念が、

「韜光養晦」(とうこうようかい)。「闇に紛れて力が付くまで待つ」(四文字熟語)で、ある。

さらに、1919年の初期、共産党大会のメンバーは数十人だったのに、反し、国民党員は数万名であった。

これでは永久に政権の座に付くのは不可能と、共産党員である事隠し、国民党に加盟させ、内部での、共産主義思想の普及に努めた。 これを『宿(ヤド)借り作戦と呼んだ。

★『韜光養晦(とうこうようかい)』。『闇に紛れて力が付くまで待つ』の二つが共産党の基本理念だ。

★そこで『国憲・民主党』と、共産党と選挙協力し、候補地の協定を結んで、立憲民主に恩を売り、『立憲・民主』内から共産党員の名を隠し、候補者にする。 

若しくは立憲・民主を、裏から操る。 

★これは、立憲・民主の枝野氏が「今回の選挙では共産党の借りができた」と述べているのが、その証である。

★私は、今回の離合集散劇を見ていると、何か依然、読んだ気がする、と思って、毛沢東の伝記、思想を読み直す内に気が付いた事である。

★だが、1919年と言えば、メディアのテレビは勿論、新聞もラジオ等のメディアは、存在しなかったので、このような隠密活動もできたのだ、と、思いますが、皆様と一緒に日本の将来の見通しを考えて見たい、と思いますので、宜しく。

   

第一章

毛沢東の基本思想

★チャイナの海洋進出が叫ばれて久しい。

南シナ海の岩礁を埋め立て、人工島を造り3000メートル級の軍用滑走路ができ上げって軍事基地化は既にできた。 

『一体一路の海洋シルクロード』の建設に、途上国に対する経済援助は惜しみなく与える等々と姦しい。

では?中華人民共和国の創立者・毛沢東の基本的思想は、何か?検証してみたい。

その基本思想とは何かを?

★「力がない間は、闇に紛れて力の付くまで待つ」。(タオ・グワン・ヤーン・ホイ)であり『毛沢東』の編みだした、帝王学の基本中の基本である、と既に書いた。

この思想は国家の運営も同じで、後継者の『習・金平』にも引き継がれている。

★すると、中国共産党の取る、強硬な態度の『尖閣列島』、『東シナ海、南シナ海の岩礁地区を埋め立人工島の建設』、あるいは日中中間線で海底油田採掘櫓の建設を、幾ら日本が抗議しても、梨の礫で増え続けいる事が理解できる。

★「力がない間は、闇に紛れて力の付くまで待つ」。(タオ・グワン・ヤーン・ホイ)で、日米と争っても勝ち目がない間は、「力がない間は、闇に紛れて力の付くまで待つ」。

で、中華人民共和国、建国以来、70年、「臥薪嘗胆」、闇に紛れて力の付くまで待ていたのである。

★彼等のいう『革新的利益』は、「待ちに待った時が来た!」のである。

また、自国傘下の北朝鮮の「核、ミサイル」実権を繰り返すのも、根っ子は繋がっている。

日本が抗議した位で諦めるものではない!

★日本政府が、口先で幾ら厳重抗議しても、いわゆる『蛙の面にションベ』である。

★古来から、孫子の教えは『敵を知り、己を知れば、百回戦しても危なからず、(危険はない)』、であり、その思想を学んで育った彼等である。 

★日本の国会論争は全て見て、対応を研究している。

国家会での与野党のやりとりは、「敵がこうくれば、こういう対策であたる」。

説明責任と称し、与野党答弁でペラペラしゃべっている。

★これでは、敵に手の内を教えているようだ。日本が何時反撃する、しないか、を、解った上でそのギリギリの線までの侵入を繰り返し、実績を創っているのだ。

我日本人は如何に対応すべきであるか、は『己自身で知るべし』である。

★対策の第一は、この情報流失を防ぐ事である。

『孫子の兵法により、彼等は、城攻めには敵の三倍の兵力がいる』、と教えられているので、彼我の戦力が対等であれば攻めてこない。 

★第二は、敵の習性(弱点)を知った上で対策を講じる必要がある。

城攻めには敵の三倍の兵力がいる、と教えられているので、彼我の戦力が対等であれば攻めてこない。

★彼、毛沢東の思想の原点は、幼少期に父の家業は、裕福な農家である。但し、ただ、父一代で築きあげた、努力家である為に、『家畜の世話を手伝わさんと、彼(習・金平)は扱き使われた』。

だが、向学心の旺盛な彼は、反抗し、隠れて書物を読み耽った。

★見つかると、父は暴力奮って、農作業を強制する父に反抗して、しばしば殴られていたのが、母の執り成しで、『地面に頭を擦りつけ、父に謝った』。

この悔しさは生涯忘れる事の出来ない事であった。

★長じて社会にでて、学問を学ばんと北京大学を受けるが、書物を読んだ知識はあるが、基礎勉強をしていない、彼は『受からない』。

何度も挑戦をするが合格はできず、雑役婦として図書館に勤務、合間に学ばんと試みたが、館内の掃除、来客の案内等に終始し、『俺より頭の悪い奴らが偉そう、』と反発し、辞めてしまった。

★そして彼は、『自分の住処は農村だ、農村に紛れ込み、力を蓄えようと決心した』。

この思想は現在の『指導者・習・金平氏』にもひきい継がれている。

★習・金平氏の父は、延安の長征の頃からの毛沢東の腹心とし戦いに参加し、国務院・副総裁まで登り詰めたが、毛沢東に『反革命分子』として捕らえられ、16年(1925~1978)も投獄されていた。

彼・毛沢東が、国共合作で日本軍と戦っていたが、真の敵は、蒋介石率いる国民党軍である。

★国民党軍を叩いてくれる日本軍と、我々共産党軍との戦闘は避けねばならない。

反日で国民政府軍と共闘しても、真剣に日本軍と戦ってはいけない。

★産党は「勇猛果敢に日本軍と戦っている、と国民に思わせればいいのだ」。と、厳命されていた。

★これを中実に実行した司令官・習・金平氏は『知り過ぎた男』として、『反革命分子』の、汚名を着せ、多くが粛清、投獄して事実を隠ぺいしたのである。

★、習・金平は文化大革命の時、『反・革命分の子』の子として、自ら志願してとして、山奥に下方(思想教育とし田舎に行かされる事)され、肉体労働の強制を甘んじて受けた。

★その時の場所に選んだのが、父が16年の長きに渡って幽閉された、『悔しさの籠っている』あの延安で地であった。

★ヤドカリ作戦

1921年、上海で中国共産党の結党大会が模様され、毛沢東は長沙代表で参加する。

党員は30~40名くらいであった。

この頃は、共産党も国民党も混然一体であった。

国民党とは、孫文が創設した中華革命党を1919年10月に改組したものである。

★中華革命党は1906年三民主義、(民族、民権、民生)を綱領として結党し、辛亥革命を成功させている。

★共産党が結成したころのシナの国号は『中華民国』で、中華民国の与党は国民党であった。

この孫文に対し、コミンテルは執拗に国共合作を提案してきた。

★誕生したばかりのソ連は、ロシア革命の王族一家の悲惨な最期を知った各国は、中々ソ連を承認しなかった。

あせったソ連は、『ならば隣国を国ごと共産化してしまえ』、として創ったのがコミンテルである。

★コミンテルは共産化の焦点をシナ大陸に絞った。中国共産党創立の御膳立はコミンテルがしたのである。

いうなればコミンテルはソ連の傀儡として誕生したのであるが、何としても党員の数は少なすぎる。

★1922年7月、第二回共産党大会が上海で開かれた時の党員は195名、国民党は13万5000人で比較にならない。このままでは中国に共産党政権を建てる等は夢物語である。

そこでコミンテルと協議の結果生まれたのが『ヤドカリ』作戦であった。

★共産党党員は身分を隠し、国民党の党員となって、内部から国民党党員を伐りぐずし、勧誘して党員を増やす、という陰謀を決議した。

まず、コミンテルはヤドカリ作戦の秘密を徹底し、孫文に国共合作を提案、説得を始めた。

★当然孫文は拒否するが、コミンテル代表のヨッフエが、「ソ連は中国の共産化は考えていない」、「中華民国の統一と完全独立を支援する」等の美辞麗句を並べ口説いた。

諄かれ、孫文は、ヨッフエの言葉を信じ、『ヨッフエ・孫文宣言』を結んで第一次国共合作が出上がった。

★共通に戦う相手は群雄割拠し国を乱す軍閥と背後にいる欧米列強(列強との戦いは建前であり実際に行われなかった)であった。

★軍閥とは日本人には聞きなれない名前だが、清朝末期に国力が衰え、兵士の支払う給与も払えなくなると、指揮官が兵士を連れて脱走し、地方の政府機関を占拠し、文官の地方役人を脅し、居座って縄張りとするのを軍閥と呼んだ。

★大きなものは、数十万の兵力を持つが、小さいものは百名くらいで山城を築き、立て籠って、収穫時の農村を襲って収穫物を奪う、または、金満家の屋敷を襲って金品を略奪、婦女暴行を行う、匪賊と呼ばれる野党群等が跋扈した時代であった。  

★この辺の事は、アメリカの作家のパールバック女子が、『小説・大地』で詳細に画いているので、御一読を勧める。

★国共合作が実施

1923年6月、広州で開催された中国共産党第三回大会で国共合作が提唱された。

孫文がコミンテルの支持に従っての合作のどうしても賛成できない勢力も多く、会議は揉め、最終的に『共産党員個人で国民党に入る』という、共産党の密約通りなになった。

★それとは知らず、中国統一の美名に酔った孫文は、1924年1月、第一回・国民党全国大会を広州で開催、一万名に近い、新たな党員が入党、15万となった。

この大会で三民主義を基本とするが、国共合作の為に共産党を受け入れる為の『容共』、工人、農民を助ける『扶助工農』が、党綱領として採択された。

★この大会の個人の資格で参加した共産党員の中に毛沢東もいた。

この大会で共産党員を国民党に入党に反対の意見に、毛沢東が発言し、合作は決まっているのに入党に反対する意見等の審議は禁止し、議事進行すべきで、今は革命に全力を注ぐべきである。を強行発言、存在価値を高めたのである。

★この堂々とし、筋の通った発言に、孫文と国民党幹部は注目し、国民党中枢の執行部に高く評価され、いきなり国民党の中央執行委員に当選した。

もっとも、国民党大会に出席した共産党員が、次から次えと発言し、議論を奪うという戦法を採った側面もあったが、国民党大会で毛沢東が、その戦術に加わったのは注目に値し、

★毛沢東は革命戦線の中央に躍り出たのである。

第二章

話題を変えよう

歴史を捏造する中国人

★日中戦争は1945年に終結、中華人民共和国は1949年に誕生した。

この4年の間は、中国国内で毛沢東が率いる共産党軍と蒋介石率いる国民党軍が戦っていた内戦状態であった。

★日中戦争当時ある。

しかし、今の習近平政権は、抗日戦争(日中戦争)の時に最も勇猛果敢に戦ったのは中国共産党である、と捏造し抗日戦勝利を盛んに言っている。

★しかし、中国人民を裏切ったのは、建国の父、毛沢東である。真実は、毛沢東は日本軍と戦っていない。

日本軍と共謀した男

★毛沢東はもっぱら日本軍と共謀していたのである。

★日本が戦っている中華民国の蒋介石、国民党軍の軍事情報を、高値で日本側に売り渡した。そして日本が国民党軍と戦っている間に、日本から得た莫大な資金を元に、中国共産党軍を強大化させていたのである。

情報を得た日本軍は戦いやすくなった。時には、国民党軍を日本軍と共産党軍が挟み打ちにしていた。

★そして、日中戦争終結後、毛沢東は蒋介石を追放し中華人民共和国を樹立したのである。だから、毛沢東が生きている間は、ただの一度も抗日戦争勝利を祝ったことがない。

なぜかといえば、最大の政敵である蒋介石の功績を認めることになるからである。

そして毛沢東は、中国共産党を育ててくれたのは、日本だ、日本軍に感謝する、日本軍の進攻に感謝する。と語っているのだ。

戦後70も経った今、何故、抗日戦勝利、を叫ぶのか?

★しかし、近年中国では、抗日戦勝利、と大々的に叫んでいる。

その目的は、日本は悪者である、と決めつけ、中国の人権侵害や少数民族弾圧を世界の目からそらすこと。

★そして、日本共産党などの左翼勢力が、日本は中国に謝罪が必要だという思想を植え付けるための中国の政策である。

★これをマスコミは伝えないこと、日本での教育がないことが問題である。

国連中心主義では世界平和にも、国益にもならない!  

私は2011年7月フエースブックの投稿を始めて以来、何度も国連の不備を何度も訴えてきた。

その一部を紹介し、国連改革(新国連の創設を含む)を提案して見たい。

民主党が参議院で多数を取った頃に、私がFBで発表した記事であるから10年以上前の記事である。小沢一郎を現在の民進党に置き換えて読んで貰いたい。

★アフガンのテロを封じ込むために、多国籍海軍がインド洋で封鎖活動をしている。

国連決議にない、この作戦の協力する事は憲法違反となるので、『テロ特別措置法』には反対を唱え、民主党が第一党である参議院で否決、作戦中の海上自衛隊の艦船は引き上げをした。

★小沢一郎は国連決議のある、AISFのアフガン地上作戦には陸上自衛隊の派遣はありうる、という。

AISFとはEUの連合軍であり、それに参加する事はEUの指揮下に入ることである。

EUの加盟各国は、将来には合衆国を目指して各種制度の協議をし、手続きを進めているのだ。

まさか、日本をEUに加盟する積りか、自国の軍隊を自国に指揮権のない組織に送り込む積りか、それでも小沢氏は日本人か?と感覚を疑う。

★民主党の小沢代表が国連決議のない、アメリカ単独の戦争であり民主党は協力しない、と宣言した。

小沢一郎氏が唱える「国連安全保障会議の決議中心主義」がどういうものか真剣に考えてみよう。 まずは、

「国連は絶対中立なのか?」

「国連は絶対正義なのか?」を、研究してみたい。

国際連合とは、第二次世界大戦の戦勝国連合以外の者でも何ものではない。

国際連合とは第二次世界大戦が連合国側の勝利で終結し、戦後世界の平和とその維持を如何にするか、アメリカ主導で大国が集まり話合う「場」とし出来た組織に他ならない。

★大国とは「アメリカ」「イギリス」「フランス」「ソビエト社会主義共和国連邦」「中華民国」、の戦勝五カ国が中心である。

★当然、日本、ドイツは敗戦国でこの中は入っていない、その上、国連に敵国条項があって何の発言権はない。

1、一番重要な安全保障理事会はこの五カ国で構成され。

2、この五カ国が拒否権を持っている。

3、同時にこの五カ国は核保有国でもある。

★しかし、戦勝五カ国うち、国家として継続しているのはアメリカ、イギリスの二カ国のみである。フランスは大戦中ドイツに占領された実質敗戦国であるが、ドゴールの巧みな外交の駆け引きで戦勝国の仲間入りをしているだけなのである。

★蒋介石政権の中華民国は共産党軍との内戦に破れ、台湾に逃れ一地方政権となり今や台湾には独立運動が起こっている。

中国大陸を支配するのは『中華人民共和国』は、中華民国と戦って勝利、1949年独立を宣言した全く別の国である。

★ソビエト社会主義共和国連邦は超大国として、アメリカと世界の覇権を競い冷戦を戦って敗れた。そして、ロシアはソビエト社会主義協和国連邦は崩壊した後に、一五の共和国に分裂した1大国に過ぎず、なを、大国を維持せんと国連の「場」を利用しているに過ぎない。

★もはや国連は設立当時の戦勝国連合ですら無くなっている。

★国連は設立の趣旨と異なってしまった   

現在、国連はイラクの利権(石油)を求め、米英連合、仏独連合、ロシア、中共と四つ巴の駆け引きの「場」と成って居る。つまり弾丸を打ち合わない戦場で有る。

この事実を見て、日本がアメリカの要請を受けイラクへの援助に自衛隊の派遣するのを、★「国連中心でなければ成らぬ!」と断ることが日本の国益になるのか。

考えるまでも無い。

★むしろアメリカがイラクの処理に梃子摺って(てこずって)いる今、積極的に自衛隊を「イラク復興」に派遣しアメリカに恩を売る絶好のチャンスである。

アメリカ一国で出来ている時に、絶対に日本を仲間に入れる事はない。日本もこの際エネルギー安定供給を目指し中東に権益を持つべきである。

★今海外で活躍している日本人は一千万人以上いると聞く。今、その生命、財産を守る為にも好むと好まずとして、日本の安全保障のグローバル化を考えざるを得ない。

すなわち、世界のパワーゲームに参加せずには済まないのである。

★もっとも、「フランス、」「ドイツ」と「日本」が三国同盟を組んで、アメリカと戦争したい人達は別である。

日本の国益を考えればアメリカと同盟を組む以外の道が無いない事は明白の事実である。

★何故ならば、日米は太平洋を舞台として、死闘を繰り広げ、人員、物資を世界戦史に類を見ない損害をだしたが、一旦『講和条約』を結んだら、過去は水に流し友好国となって、

日米安全保障条約は結んでいる。 

また、多大の死傷者と多くの損害を出して武力占領をし『自国の基地として現在も必要な沖縄』を我が日本に返還してくれた国である。

★一方のロシアは北海道の一部の北方四島を、敗戦時のドサクサで不法占拠して未だに返さない国である。

インド洋でアフガニスタンの海上封鎖している多国籍の艦船に、オイル供給は国際協調で各国に感謝されているだけではない。日本の国益の為にも必要である。

★それは北朝鮮の拉致被害者の返還に理解を示している国はアメリカだけであり、国連の決議で拉致被害者が帰って来るものではない。

★アメリカの世論は、北朝鮮が核を放棄すればテロ支援国家の指定を解除する方向に向いている、とも聞く。

日本は拉致問題が解決しない内にテロ支援国家の解除はしないでくれ、と要請している。

(テロ支援国家は、すでに解除されている)

★その時期に参議院の第一党になった、と民主党が国連決議のないアメリカの戦争に協力はできない、と言う。事実インド洋で活躍中の艦船は、一度は停止帰国している。

日本がテロとの戦いに積極的に国際社会の協力をせず、北朝鮮のテロである拉致問題にきょうりょくする事等はあり得ない。

★重武装をする気があるか民主党は!   

また民主党が日米同盟より日本の絶対中立を唱えるなら、重武装をする覚悟があるのか、 スイスを非武装中立とでも思っているのか? 

★スイスの国土は日本の九州程度で、人口の900万の小国である。 

その10%、90万の軍隊を動員する準備があるから中立が保てるのである。

★第一次世界大戦でドイツがフランスを攻めたいが、独仏国境線の造ったマジノラインと呼ばれた要塞を避け、スイス国境の通過の許可を求めた。

スイス政府は「御自由のどうぞ、でも、1フィフィート毎に一万の人的損害を覚悟してください!」と言ったと聞いている。

★流石のドイツもスイス国境は諦め、同じく中立国ベルギー国境を突破しフランスに攻め込んで勝利した。

さらに、第二次世界大戦でスイスが中立を保てたのは、スイス銀行が国際資本の逃避地としての役割を果たしていたからである。これだけの気概と経済的な努力が中立を保ったのである。

★経済大国日本の立場も非常に似ている。人口の一割、一千万とは言わぬ。せめて、百万人の軍隊に核武装を含む重武装をさせ、空母機動部隊の四セットでも持てば、絶対中立(どの国とも同盟は組まぬ)は出来るかも知れない。

★戦国時代を統一した日本がキリスト教の弊害を恐れ、布教を禁止して鎖国し、宣教師を虐殺し鎖国を宣言した。これができたのは当時の日本は鉄砲の保有、生産を含めて世界の軍事大国であったからだと言われている。

自国の宣教師を逆殺され、怒ったスペイン政府が、本国からの援軍を得て、日本を攻略戦と、と試みた。 しかし、当時の日本は、鉄砲の数、性能、生産力どれをとっても世界一で攻め込む空きがなく、諦めた、と言われていた。

★それから二百六十年の太平の夢を破った、四隻の黒船の撃つ砲声に驚き、ただウロウロするだけで、戦国時代を統一した旗本八万馬と言われた、精鋭も幕府の官僚となって戦う術も失って、黒船4隻に乗った陸戦隊と戦っても、追い返す軍事力が無かったので不平等条約結んで、開国を余儀なくされたのである。

★憲法九条を守り、アメリカのいいなりにならなければ、絶対中立の日本が出来ると、お思いの似非・平和主義の方々に聞きたい。これが実態である。

明治開国以来日本が富国強兵で世界大戦を引起し、

★「世界中の人々を不幸にした事は幾ら謝っても謝り足りない、二度と戦争は起こさない」と謝り回る平和主義の皆さんに百歩譲ってその論点を認めたとしよう。

★日本の暴挙を止めさせたのは「キリスト教の牧師さん」の説教でも、「イスラムの聖職者」の説くアラーの平和の教えでも、仏教の坊さんの説教でもない。

平和主義の皆さんが一番嫌いなアメリカ軍が、日本軍より戦争が強くて、戦いが旨かった

から日本軍を打ち負かしただけの事である。

        

1、国連中心主義では世界平和にも、国益にもならない!  

その一部を紹介し、国連改革(新国連の創設を含む)を提案して見たい。

民主党が参議院で多数を取った頃に、私がFBで発表した記事であるから10年以上前の記事である。小沢一郎を現在の民進党に置き換えて読んで貰いたい。

★アフガンのテロを封じ込むために、多国籍海軍がインド洋で封鎖活動をしている。

国連決議にない、この作戦の協力する事は憲法違反となるので、『テロ特別措置法』には反対を唱え、民主党が第一党である参議院で否決、作戦中の海上自衛隊の艦船は引き上げをした。

★小沢一郎は国連決議のある、AISFのアフガン地上作戦には陸上自衛隊の派遣はありうる、という。

AISFとはEUの連合軍であり、それに参加する事はEUの指揮下に入ることである。

EUの加盟各国は、将来には合衆国を目指して各種制度の協議をし、手続きを進めているのだ。

★まさか、日本をEUに加盟する積りか、自国の軍隊を自国に指揮権のない組織に送り込む積りか、それでも小沢氏は日本人か?と感覚を疑う。

民主党の小沢代表が国連決議のない、アメリカ単独の戦争であり民主党は協力しない、と宣言した。

★小沢一郎氏が唱える「国連安全保障会議の決議中心主義」がどういうものか真剣に考えてみよう。 まずは、

「国連は絶対中立なのか?」

「国連は絶対正義なのか?」を、研究してみたい。

国際連合とは、

第二次世界大戦の戦勝国連合以外の者でも何ものではない。

国際連合とは第二次世界大戦が連合国側の勝利で終結し、戦後世界の平和とその維持を如何にするか、アメリカ主導で大国が集まり話合う「場」とし出来た組織に他ならない。

大国とは「アメリカ」「イギリス」「フランス」「ソビエト社会主義共和国連邦」「中華民国」、の戦勝五カ国が中心である。

★当然、日本、ドイツは敗戦国でこの中は入っていない、その上、国連に敵国条項があって何の発言権はない。

しかし、国連を運営する国連経費の分担金は払わされている。

アメリカ、日本、ドイツで国連の運営経費の40%を払っている。

一位のアメリカが22%で22.000 6億2,120万

二位が日本で10.833% 10.833 2億7,650万

三位がドイツ7.141億ドル。

1、一番重要な安全保障理事会はこの五カ国で構成され。

2、この五カ国が拒否権を持っている。

3、同時にこの五カ国は核保有国でもある。

★しかし、戦勝五カ国うち、国家として継続しているのはアメリカ、イギリスの二カ国のみである。

★フランスは大戦中ドイツに占領された実質敗戦国であるが、ドゴールの巧みな外交の駆け引きで戦勝国の仲間入りをしているだけなのである。

蒋介石政権の中華民国は共産党軍との内戦に破れ、台湾に逃れ一地方政権となり今や台湾には独立運動が起こっている。

★中国大陸を支配するのは『中華人民共和国』は、中華民国と戦って勝利、1949年独立を宣言した全く別の国である。

★ソビエト社会主義共和国連邦は超大国として、アメリカと世界の覇権を競い冷戦を戦って敗れた。そして、ロシアはソビエト社会主義協和国連邦の崩壊した後に、一五の共和国に分裂した1大国に過ぎず、なを、大国を維持せんと国連の「場」を利用しているに過ぎない。

★もはや国連は設立当時の戦勝国連合ですら無くなっている。

2、★国連は設立の趣旨と異なってしまった

現在、国連はイラクの利権(石油)を求め、米英連合、仏独連合、ロシア、中共と四つ巴の駆け引きの「場」と成って居る。つまり弾丸を打ち合わない戦場で有る。

この事実を見て、日本がアメリカの要請を受けイラクへの援助に自衛隊の派遣するのを、「国連中心でなければ成らぬ!」と断ることが日本の国益になるのか。

考えるまでも無い。

★むしろアメリカがイラクの処理に梃子摺って(てこずって)いる今、積極的に自衛隊を「イラク復興」に派遣しアメリカに恩を売る絶好のチャンスである。

アメリカ一国で出来ている時に、絶対に日本を仲間に入れる事はない。日本もこの際エネルギー安定供給を目指し中東に権益を持つべきである。

今海外で活躍している日本人は世界に一千万人以上いると聞く。今、その生命、財産を守る為にも、好むと好まずとして、日本の安全保障のグローバル化を考えざるを得ない。

すなわち、世界のパワーゲームに参加せずには済まないのである。

★もっとも、「フランス、」「ドイツ」と「日本」が三国同盟を組んで、アメリカと戦争したい人達は別である。

日本の国益を考えればアメリカと同盟を組む以外の道が無いない事は明白の事実である。

★何故ならば、日米は太平洋を舞台として、死闘を繰り広げ、人員、物資を世界戦史に類を見ない損害をだしたが、一旦『講和条約』を結んだら、過去は水に流し友好国となって、

日米安全保障条約は結んでいる。 

★また、多大の死傷者と多くの損害を出して武力占領をし『自国の基地として現在も必要な沖縄』を我が日本に返還してくれた国である。

ロシアは昭和20年8月9日、日本は広島に続き長崎に原子爆弾を投下され、戦争継続の力を失った、ドサクサに紛れ、ロシアは北海道の一部の北方四島を敗戦時のドサクサで不法占拠して未だに返さない国である。

★インド洋でアフガニスタンの海上封鎖している多国籍の艦船に、オイル供給は国際協調で各国に感謝されているだけではない。日本の国益の為にも必要である。

それは北朝鮮の拉致被害者の返還に理解を示している国はアメリカだけであり、国連の決議で拉致被害者が帰って来るものではない。

★アメリカの世論は、北朝鮮が核を放棄すればテロ支援国家の指定を解除する方向に向いている、とも聞く。

日本は拉致問題が解決しない内にテロ支援国家の解除はしないでくれ、と要請している。

(テロ支援国家は、すでに解除されている)

★その時期に参議院の第一党になった、と民主党が国連決議のないアメリカの戦争に協力はできない、と言う。事実インド洋で活躍中の艦船は、一度は停止帰国している。

日本がテロとの戦いに積極的に国際社会の協力をせず、北朝鮮のテロである拉致問題にだけ国際社会に協力を依頼しても各国が快く協力してくれる筈はない。

国際社会の協力があっても困難な問題である。

もしかして日本独自で解決する積りか?

あるいは拉致被害者の救出を諦める積りか? 

★小沢氏の外交感覚を疑うとともに、とても政権を任せる訳には行かない、という事になる。

小沢民主党(現在の民進党)の大好きな、国連の運営費は、アメリカに次一位アメリカ(220006億ドル)次いで、二位の日本は(10.8332億ドル)、合わせて三分の一を負担し、さらに「ODA」では日本は米国に次いで世界二位の援助大国である、(日本の財政事情で★現在はかなり減っている)この事を旨く広報活動すれば、日本の意に沿った国連決議をさせ日本の地位向上に繋がる。

3、★重武装をする気があるか民主党は!

また民主党が日米同盟より日本の絶対中立を唱えるなら、重武装をする覚悟があるのか、 ★スイスを非武装中立とでも思っているのか? 

スイスの国土は日本の九州程度で、人口の900万の小国である。 

その10%、の軍隊を動員する準備があるから中立が保てるのである。

★第一次世界大戦でドイツがフランスを攻めたいが、独仏国境線の造ったマジノラインと呼ばれた要塞を避け、スイス国境の通過の許可を求めた。

スイス政府は「御自由のどうぞ、でも、1フィフィート毎に一万の人的損害を覚悟してください!」と言ったと聞いている。

★流石のドイツもスイス国境は諦め、同じく中立国ベルギー国境を突破しフランスに攻め込んで勝利した。

さらに、第二次世界大戦でスイスが中立を保てたのは、スイス銀行が国際資本の逃避地としての役割を果たしていたからである。これだけの気概と経済的な努力が中立を保ったのである。

★経済大国日本の立場も非常に似ている。人口の一割、一千万とは言わぬ。せめて、百万人の軍隊に核武装を含む重武装をさせ、空母機動部隊でも持てば、絶対中立(どの国とも同盟は組まぬ)は出来るかも知れない。

★戦国時代を統一した日本がキリスト教の弊害を恐れ、布教を禁止して鎖国し、宣教師を虐殺し鎖国を宣言した。これができたのは当時の日本は鉄砲の保有、生産を含めて世界の軍事大国であったからだと言われている。

それから二百六十年の太平の夢を破った、四隻の黒船の撃つ砲声に驚き、ただウロウロするだけで、追い返す軍事力が無かったので不平等条約結んで、開国を余儀なくされたのである。

★憲法九条を守り、アメリカのいいなりにならなければ、絶対中立の日本が出来ると、お思いの似非・平和主義の方々に聞きたい。

明治開国以来日本が富国強兵で世界大戦を引起し、

「世界中の人々を不幸にした事は幾ら謝っても謝り足りない、二度と戦争は起こさない」と謝り回る平和主義の皆さんに百歩譲ってその論点を認めたとしよう。

★日本の暴挙を止めさせたのは「キリスト教の牧師さん」の説教でも、「イスラムの聖職者」の説くアラーの平和の教えでも、仏教の坊さんの説教でもない。

平和主義の皆さんが一番嫌いなアメリカ軍が、日本軍より戦争が強くて、戦いが旨かったから日本軍を打ち負かしただけの事である。

4、★政治家、マスコミよ!歴史を学べ!

現在の国連加盟国(1945年)は51ヶ国で創立、現在(2001年)は193ヶ国である。

増えた142ヶ国のうち

この、国連設立後に増加した142ヶ国の内多くは、第二次世界大戦で日本が破れた後に、独立戦争を戦い抜いた、結果に独立を勝ち得国々である。

★戦いに敗れ、本国、日本に帰るのを潔し(いさぎよし)としない、多数の日本兵が武器、弾薬を持ち、独立戦争に参加したのである。

★インド、ビルマ(現在のミャンマー)マレーシア、は英国領、インドネシアはオランダ領、ベトナム、ラオス、カンボジャはフランスの植民地であった。あの有名な「ガンジーの非暴力の無抵抗」でインドが独立出来たのは大戦後である。

★この無抵抗運動が成功したには「チャンドラボース氏」のイギリスの敵ドイツ、日本を味方にした独立戦争の存在があったからこそ、ガンジーの無抵抗運動が成果を上げ独立が出来た、という有力な説がある。

★フリッピンはアメリカの植民地。大東和戦争が始まり、この戦争に協力してアメリカが勝利したら独立をさせるとの、約束をして貰ったのである。

★パキスタン、インド、ミャーマン、シンガポール、マレーシアは英国領、ラオス、カンボジャ、ベトナムフラス領、インドネシアはオランダ領、これ等の国々は全て欧米列強の植民地であった。

これ等の各国は、日本が太平洋戦争を戦ったので独立出来たのである。第二次世界大戦前、アジアの独立国は日本とタイ国だけである。そのタイ・王朝も、英,仏の領土争いの干渉地帯として必要であったからである。

★第二次世界大戦は、ヨーロッパでは覇権争いの戦争だが、日本は自存自衛とアジアの植民地からの開放の為に戦ったのだ。

こうして独立を果たした、これ等の諸国の経済発展は著しく、この利潤は先進諸国の経済にも多大の寄与しているのだ。

★先の大戦で日本はアジア諸国に多大な被害を与え、気の毒な事もした。しかし大戦がアジア諸国の独立に果たした効果はあり余るものがある。日本のした事の善悪を正確に分析して、自信を持つ事が必要である。そして善悪は卑屈に成らず堂々と議論するべきである。

5、★歴史上の事実を我々は「活目して見る!」必要がある。

これは、偏狭な右翼思想や、国粋主義に成れというのではない。

古代より、戦のない時代があったのか聞きたい。その戦に正義などという物があったであろうか?

国益を求めた領土争い過ぎない。それに後付けの理屈を付け正義と云っているに過ぎない。アメリカの戦争は大義が無いイラク戦争をするが、ロシアやチャイナの行動には大義があるのか?

★「民主党の国連中心主義を唱える皆さん!」、アメリカの置き土産の憲法九条を後生大事に守り、アメリカに逆らっていれば平和の維持ができると思っているのか?  

社民党や共産党の方々の返事も聞きたい。

★国連分担金上位国(10ヶ国)

参考の為に国連の必要とする費用と、日本の分担率を表記して置く。

一位 率 22%  米国) 22.000 6億2,120万

二位 率10.833% 日本  10.833 2億7,650万

三位 率7.141%  ドイツ 7.141 1億8,220万

四位 率5.593% フランス 5.593 1億4,270万

五位 率5.179%  英国   5.179 1億3,220万

六位 率5.148% 中国   5.148 1億3,140万

七位 率4.448% イタリア 4.448 1億1,350万

八位 率2.984% カナダ  2.984 7,620万

九位 率2.973% スペイン 2.973 7,590万

十位 率2.934% ブラジル 2.934 7,490万

(分担金額(米ドル)(百万未満四捨五入)、数字は外務省のホーム頁から)

★安全保障理事国でもない日独が、何と必要経費の約18%も納めているのだ。

★実質的な国連の分担金について、

名目、日本は国連経費負担割合が米国について2位で、払込額では1位なのである。

敵国条項もあるし常任理事国でもないし職員採用国籍割合も少ないし事務総長出身国でもないし、GDP比率での分担割合も米国やEU各国合計や中国より倍以上の負担っているのは不思議である、思うが、日本以外の国、特にアメリカは自国主張が通らないと分担金を滞納する。

★しかも、米国が多くを滞納するため、日本に実質的に負担額が1番になってしまうのだ。

国連総予算は2012年度の予算=25億7600万ドル。

アメリカは国連で自国の意見が通らぬと、直ぐ分担金の滞納をするのだ。

★滞納額は国連すべてで85500万ドルである。その内アメリカは74400ドルで、ダン突となる。

アメリカが世界の警察官だと自認している頃は、安保理に意見が一致しない時は、アメリカ単独、または有志連合、他国籍軍を組んで事に当たる、で過ごしてきた。

★だが、アメリカの経済は衰退し、既に、アメリカは世界の警察官ではない、と宣言している。 

これを如何に経済大国とは言え、「よろしい! 日本が引き受けます」、と言えるか? 

考えるまでもない。

★今や世界二位の経済大国であり、常任理事国で、拒否権を持つチャイナが五大国の次の6位には納得できない。

★ましてや、どこにいるのか、10ヶ国に名前もでてこない韓国が国連を舞台の反日、侮日の行為を許す訳には行かない。

これは国内で日本の禄を食む輩の反日、侮日の行動も同じく厳禁にすべきである。

★アメリカが単独ではできない、『世界の警察官』と宣言しているのに日本一国でできる分けがない。 

そこで新しく組織を創らねばならない。 最早思案している時ではない。

広く与論を集め、実行に移す時である。

江戸時代の百姓は案外豊かだったのではないか?

★『織田が捏ね(こね)、豊臣が突く(つく)天下餅、ただ家康と安々食らう家康』

こんな戯れ話がある。でも、家康だって苦労も努力をしているが、ここでは省く。

織田信長が『兵・農分離』の元祖で、秀吉の刀狩りで、ほぼ固まって、家康が大阪夏の陣で豊臣を滅ぼし、天下を統一し、『士・農・工・商』の身分制度を確立した。 

★百姓は身分こそ、支配者の武士に続く身分を得たが、家康の政策は百姓を、百性を各・大名の主戦力・足軽(歩兵で、鉄砲部隊の主力)の、供給元が農家の次男、三男が多かったにで、力を削ぐ為に、『生かさぬよう、殺さぬよう!』、収穫の半分は年貢の取り立で、百姓の手元には、半分しか残らなかった。 

これでは満腹にならないので水を飲んで凌いだ。 これが『水飲み百姓』の語源だと聞いている。 
さらに『太閤検地』で『隠し田』は全て白日の下に晒され、収穫の全てが把握され、結果年貢の取り立て厳しかったと聞く。

★こんな話を聞くと、江戸時代は百姓にとっては暗黒時代だった想像するが、奈良県・御所市の郷土史家の論文によると、『五公五民』の年貢も、庄屋の陳情に応じた査定の武士により、隠し田の三割は「お目こぼし」,とななり、実質の年貢は収穫の七割であり『五公五民』の年貢の納め高は、実質三割五分で、百姓の取り分の方が多かったのである。

これで納得した。 

★春は豊作を祈る春祭り、秋は収穫の恵みに感謝する秋祭りが行われ、神の供えたお供え物の御下がりは、村民の頂く事となり『飲めや、歌絵や』と、大いに楽しんでいる。 

そして、農閑期の御伊勢参りは、伊勢講(積立金)を組んで、集団で一月にも及び、伊勢神宮の門前町には大きな歓楽街もあって、伊勢講の農民は結構楽しんでいたようである。

さらに、近在にあった遊郭は、千人近い遊女を擁し、江戸の吉原、京都の島原と並んだ三大花街だと聞く。

これらを考えてば各種税金に苦しむ、現代の我々より優雅な暮らしでは無かったのか、想像するが、あながち間違いでもなかったような気がする。

★領主や代官が無理な課税や役務の調達をすれば、ムシロ旗を掲げ、一揆を起こし強訴をする。それが幕府に聞こえると、

『領内の治世宜しからず!』と、領地召し上げや、国替えをされる事を恐れた領主達が穏便に事を済ませようと妥協したので、財政が苦しかったのは寧ろ支配者側の方だった。

★この話の出所の御所市の名門の出の、中井陽一氏は、三井造船の技師で退職後、自家の土蔵に先祖打代残された五百冊に及ぶ古文書を解読し、博士号を得た。

その博士論文の一節から借用したものであります。

原文は難しく、筆者の能力では読み辛く、中井先生に解説して頂いたものであり、誌上をお礼と感謝の意をさせて頂きます。

★現代の農水省の方針は、この『御こぼし』しで、農家を優遇して、農業の近代化を妨げているのだ。

チャイナやアメリカの農地は、数百ヘクタールの広大な農地に、日本では見たこともない大型機械での大量生産だ。

我が国の農業は個人での耕作できる、単位の2ヘクタールの農家などは滅多にない。

近畿の穀倉地帯と言われる、滋賀県が1.-5ヘクタールが精々である。

★琵琶湖の次の大きな湖の『八郎潟』を埋め立て、日本の農業の大型化を目指しても、一戸当たりが15へクタール。

しかし、この大型農地が完成した時には、米も生産過剰で、減反奨励金が出ている。

村の中の自宅、農地を売って、入植した農家にも減反名令が下った。

「馬鹿な!」と、減反指令に背いて植え付けた農家に、『農地の返却』が命じられ、帰る家を亡くし、減反司令に従って、泣く泣く耕運機で青田を踏みつぶしたのだ。

農水省は、これに補助金を払ったとういう。

そして、都市近郊の里山近くの棚田(一区画数十坪)も、元々の取り高は広域農家の半分であるのに一律の減反である。

★都市近郊の農家と称する、家は近所の会社のサラリーマンで、農地は家庭菜園の姉サン程度の範囲でで、農家とは呼べない代物だ。

我々も棚田の風景は日本人の心の故郷、原風景で残したい、というからには、最早、価格競争力を失い,不要となった農地、それを維持する費用の負担を如何にするかを、真剣に考える時が来ている。

悪戯に輸入品と価格競争をさせるだけでなく、狭い国土は地価が高い。従って価格は高くなる。

遺伝子操作の小麦は食べたくない。 手間暇かけて、品種改良した国産米が、良いのなら、その原価を誰が負担する。 

★こんな難しい事を、農水省の役人だけに、日本の将来の食糧計画を任せて、良いものだろうか?

TTPが発効すれば、日本の農業は壊滅する、と非難をするが、個人経営で、小規模な日本の農家の担う人々は平均が65歳と聞く。 TTPに入ろうと、入るまいが、後、数年で農業従事者はいなくなり、田畑は休耕田で荒地になってしまう。

TTPが発効しようと、しまいが、日本の農業は重大な転換期に来ている。

★一億の日本人総べてが、持てる英知を結集して考えようではないか?!

僕の戦後が始まった(人生の振出かも?)

★我が家は疎開で京都に来ていたので、B・29の絨毯爆撃には合っていません。

しかし、終戦前の半年、終戦後の半年、の一年間はB-29の絨毯爆撃で交通網(当時は電車、汽車)破壊尽くされ、都市部での食料(米)の配給は遅配続きで、正に飢えを凌ぐ為の毎日であり、稀に欠配もあった。

そんな事で我が家は母方の縁者を辿って三重県の名張の近くまで食糧の買い出しに、買った闇物資の食糧品を担いで帰る為に就いて行った。

帰りの電車の中で空襲警報が発令された。

終戦間近で、米空母艦隊隊が紀伊半島沖に遊弋し、日本本土の空襲を繰り返していた。

内陸部は空の要塞と呼ばれた銃爆撃機B-29の独壇場で、海岸、及び沿岸諸都市には航続距離の短い、艦載機・グラマンの担当だったらしい。

その艦載機グラマンの機銃掃射にあって、電車は狙われる、と電車を降り、近くの畑の畔に逃げ込んで数メートル先に、銃弾が撃ち込まれ、土煙が上がった事は今でも鮮明に覚えている。
グラマンのパイロットの顔が見える位の近さを、繰り返し、繰り返し、機銃掃射を続けた。

パイロットの顔が見えるのだ。僕が非戦闘員なのも見えた筈である。
然るに、である。

僕等は飛び去るグラマンを睨み付ける、仕方がなかった悔しさは、誰が知る。

日本軍自慢の無敵の筈の『ゼロ戦』は最後まで姿を見せなかった。

★疎開せず、東京に残った友人が後日くれた手紙で、3月10日の空襲で、家は家財共々全焼し、もう東京は焼け野原で、どこまでも見通せる広っぱ(ひろば)になった。 

友人の『誰それは死んだ!』の情報を聞きました。

幸いにも僕の家族は亡くしていません。 しかし、父の仕事は軍需物資だ、の認定で統制会社に合併された。 
その役員となった父は、それを誇とりして、情熱を注ぎ、生きていました。

だが、戦後、資産と地位を無くし、呆然自失の状態でした。

★学校では『剣道の防具、竹刀、木刀』の類は校庭に集められ焼却された。

『御真影』と呼ばれた天皇陛下の写真、勅語の類は、校長先生、以下有志の方々が、校舎の片隅で泣きながら燃やしていた。 

僕たちは、教科書の勅語、青少年・学徒に賜りたる勅語。戦争や、軍神を美化してもの、戦記物は墨で塗りつぶされるか、切り捨てられた。 
先生は淡々と無表情でこの作業を指示していた。

何か間違っている。「先生も昨日の先生と同じ顔だ!」。 僕は切り取って家に持ちかえり、「忘れてなる物か!」と繰り返し読んで頭に叩き込んだ。

★僕はアメリカを憎みました。 

進駐軍がやってきました。 示威行動か、京都中心の烏丸通りを、銃剣を担いだ米兵が、隊伍を組んで後進しています。 
休憩時間が来ました。三々五々、兵隊達は銃剣を地面に寝かせ、その上に腰を下ろして休んだ時は煙草を吸い、ガムを噛むのだ。 

それに比べて日本軍は「小休止!」と命じられ時は、姿勢は崩すが、腰は下ろさない。

「大休止!」の命が出て初めて腰を降ろすのだ。 その時は銃剣を三丁で組たて、決して地面に平積にしない。
軍律の厳しさは、日本兵の比ではない。

何でこんな連中に負けたんだ?と不思議であった。

★それの周りを取り囲むように、同級生の児童が見守っている。 

兵隊達は「ほれ!」と、犬か猿に餌を与えるように投げる。 
それを拾わんと、我先に飛びつくように走って拾うと元の場所へ駆け戻る。 

次に投を待って、投げたら拾わんと、身構えて待つ。

『やめろ!餓鬼ども!』と、蹴散らしたかった。だが、銃剣を持った米兵の前では、その勇気はなかった。 
私は街角に隠れて泣いた、涙はこぼれて止まらない。

『なんで!なんで!』。ついこないだまで、『欲しがりません、勝までは!』『鬼畜!米英撃滅!』と誓ったではないか。 
「負けたんだ!日本は!」。

★学校ではこんな作業は粗方済んだ頃、僕は数人の級友を引き連れ、教員室に先生を訪ねした。

「先生!戦争は負けたんでショ!」「 負けたら僕達死ぬんでショ」、「何時死ぬんです? 手投弾は何時呉れるんです」。 

先生は「・・・・・」は黙ったままです。 
時間が流れに従って、後ろの友達は一人、一人と減って、僕と先生も二人で黙って向き合ったままであった。 日も暮れる頃になった、先生は重い口を開き、「もう、お家に帰りなさい。戦争は終わったんだ、君達は死ななくて良いんだ」。

「これからはアメリカと仲良くするんだ!」。

僕も黙ったまま、家に帰りました。 帰っても黙ったままで、父母と何の話もしませんでした。 
翌日も黙って学校に行きました。 
先生にあっても、昨日の事などは、黙って何も言いません。 
友達も昨日のこと等、何も言いません。 

何か別世界に来た気がしました。
これが私戦後生活の始まりでした。

★明くる年、僕は旧制中学に進み、翌年、学制改革があって『小学校6年,中学3年-高校3年-大学4年』へ移行され終戦後の新体制が始まったのである。

しかし、復員が始まっても未帰還兵が多く、父兄の帰って来ない生徒が多く、中には『・・・方面に作戦中に戦死の公報』を受け、暗く沈んだ顔の友人の顔を見る辛さは、今、思い出しても涙がでる。 

僕の親友と呼べる、クラスで成績は常に上位にいた、友達は父の戦死で学資が出せないか、高校へは行けず、日通のトラック助手の就職したのが印象に残っている。

因みに、当時の彼等中学出の給与は2500~3000円で、食べるだけ、家の食費を入れると、下駄一足も買えない金であった。

★下級将校や、陸士、海兵を卒業できず、戦線にでる前の若者も戻ってきて、中学の4年5年に編入してきたので、上級生は年嵩で僕等にとっては叔父さんであった。

必然的に彼等は、戦争、軍隊を経験して、物知りであった。

休憩時間や放課後に、彼等の元に集まって、戦争や軍隊の話を聞くのが楽しみであった。

彼等もまた、些か誇張し、身振り手振りで話してくれた。

総じて彼等は戦争を美化もしなく、やたらに否定もせず、極めて客観できで面白かった。

そんな彼等はアメリカに学ばんと、争うようにフルブライトの奨学金を貰ってアメリカに渡り、我々は羨望の眼で見え送って、フルブライト帰りが居る、と聞けば、遠近構わず押しかけ、貪るようにアメリカの話を聞いた。

彼等も惜しみなく、身振り、手振りで、ドリルは直角の穴を下向けの明ける、アメリカサンのは、ドリルは水平、斜め、同時に幾つで空けるんだ。 だから、飛行機が雲霞のように飛んでくる。それで戦争に勝てる訳はない!と笑い飛ばしていた。

★高校生に入って間も無くの昭和25年、朝鮮戦争が勃発し、雪崩の如く北朝鮮の戦車が攻め込んで来た。 
結果は御存じの通り。

アメリカを憎んだ反米少年も、何時の間にか、「アメリカに学べ! アメリカに追いつけ!」と替わって行ったのである。

★そして、皮肉にも日米安保を堅持し、アメリカとの同盟を強化して、世界平和の邁進し、新規に世界の覇権を狙う国家、チャイナの誕生の阻止に励む老人である。    

何だ、私の履歴書もみたいな挨拶になりましたが、面接を受ける時に履歴書を出すで、私も皆様にご御挨拶のさせて頂きます。

「極東の粟粒、谷間に住む八千万国民へ!」

★昭和20年8月15日(彼は国民学校6年)

昭和20年8月15日(筆者が国民学校6年)「ガ~ガ~」と聞き取りにくい玉音放送を聴き、「神州日本は鬼畜米英に負けたのだ!」と理屈は判っても、まだ実感の沸かない頃である。

数日もすると、灯火管制の黒色のカバーが電球から外され、窓ガラスの飛散防止用に貼られた紙も剥がされ、街に外灯が点き出した。

我々は「夜もこんなに明るかったのか?」と感心していた頃の事である。

★当時の社会の概況

国家総動員令で「ガソリンの一滴は血の一滴だ!」と言われ、国内を走るトラックは木炭を炊いた走る木炭車と呼ばれていた。やがて木炭も不足がちで、木炭と同じ長さに切った、堅木(ナラ、クヌギ等)を不完全燃焼で発生するガスを炊いて走る代用燃料車(通称・代燃車)であった。 走る時にはモクモクと煙を出す代物であった。

これも「軍需物資で国家の統制下であった。」

これ等を扱う業者の薪炭業が全国で集められ、統制会社を創られた。その役員であった父は仕事に誇りをもって当たって、代用燃料の開発に昼夜を徹して働いていた。

食料事情の悪化は、敗戦の発表以前はまだ国家の権威があり、『遅配』と、言って、遅れながらも配給はあった。

敗戦で国家権威が落ち、都市部では『欠配』がしばしばで、『一億総闇屋』で喰っているような状態であった。

父は理想が高かった明治の男であった

そんな頃に父が、まだ小学六年生の僕に言った言葉である。

「もうすぐシナ大陸や南方諸島から、大勢の軍人、民間人が引き上げてくる。日本の国土は山が多く平地は少なく、従って農地は少ない。日本人は凡そ八千万、どうしても四つの島で食べて行けない。

都市周辺の里山を開墾し、農地を増やし、山には木を植え、林業を盛んにすれば8000万の人間も何とか食って行けるだろう。

その準備をするのが本土に残っていた我等の仕事である。

と言って創ったのが「希風造林社」であり、その檄文の書きい出しが、

「極東の粟粒、谷間に住む八千万国民へ!」であった。(全文は覚えていない。)

そして僕等には、「お前たちも自分の将来の仕事を考えねばならぬ」。

日本と言う国が残るかどうかは、占領軍の意向次第で、判らないが、日本が残ったとしても軍人と言う職業は無いのだ!」何になっても良いが、

「金を儲け贅沢な暮らしがしたければ商人(あきんど、実業家)になれ」。

「天下国家の為に働きたければ官吏になれ!」

しかし官吏になれば生活質素でなければいけない。

つまり「清貧に甘んじる覚悟がいるのだ」。

(勉強の良くできた僕には、)

「学者、大学教授になり学問をしたければ、我が家の財産では無理だ、資産家の娘さんを見つけ養子に行け!もしくは持参金付きの嫁を貰はなければむりだよ」。」

と、口癖のように言われていた。

★当時の世相の概要

間もなく中国大陸からの引揚者は洪水のように大量に帰ってきた。戦災を免れ、疎開で空き家のままの家、お寺の本堂以外の建物はその受け皿とされ、手荷物だけの引揚者で埋ってしまう勢いであった。 「希風造林社」は彼等の仕事を提供した。

あらゆる物資が不足資する時代、松根油を搾るために根っこだけ使い、残った丸太や枝、葉は切り捨てられ、廃材として山腹に放置されていた。

切り捨てられた廃材を、彼等が運びだし、一定の長さにカットして造った柴、薪は飛ぶように売れ、父は昼夜の別なくなく働いた。

そんなある日、父は「辞めた!辞めた!あんな奴らの面倒を見るのは!あんな事をしているから日本は戦争に負けたんだ!」と怒って仕事を投げ出して、火鉢の脇の座り込み、火箸で字を書きながら、物思いに耽って終日を過ごしていた。

後日、関係者の話によると、作業をしていた引揚者の一部の者が、自分達が伐りだした柴を、木立の陰に隠し、全員が帰った後で、闇に紛れ、運びだし売って着服していた。

それを見つけた者も、報告するどころか、脅かして分け前を貰って協力していたのである。

余の事に呆然自失、家族を養う事も忘れたように、一日中、火の消えた火鉢の脇に座り込み、物思いに耽っていた。

それでも家族は食わねばならない。残った有志、数名と残務整理を兼ね、搬出した廃材を薪として売ってのその日暮らしであって。

幸か不幸か?戦後のインフレは激しく、物価は今日より明日は高かく、薪も高値で良く売れた。 闇市は全国各所にあり、此方で買って、あちら向いて売れば利鞘は稼げる時代も終わり、社会も少しは落付きを取も戻した。 

気を取り直した父も職場に復帰し、ささやかながら一家で薪炭の小売業を営んで、一家の生活もそれなりに安定し、家業は自営業として家族で薪炭販売をしていた。

★台風の被害にあった

彼の親が洛外の間伐を急がねばならない山林の、伐採を契約、伐採の準備をしていた。

労務者の寝泊りする山小屋の建設、搬出する林道(間伐材を使って簡易線路を造り)、キンマと呼ばれた台車もできた頃、苦労して造った、台車もキンマ道も、台風の襲来で一夜にして激流に流されてしまった。

僕は山を見回る父に付いて山を歩いて、山小屋に一泊して事も何日もある。その時に夕立にあって、山小屋で雨宿りをしたことがあった。雨が上がって日がさして、でて見ると、

普段は穏やかに流れる渓流が濁流となっている。

古典で、「道は変じて河となり、河は変じて海となる」、とあるが、正に渓流に沿って造られた道は、川と合体して、激流となって流れている。 もとの河は谷と合体し、水の多さはまるで海である。海は波は立てるが激流のようには流れない。

たった一時間の夕立である。この水は何処に溜まっていたのか、不思議な程の量であった。

これが台風で二日も豪雨が降ったのだ。何とも恐ろしい激流を経験した事があった。

ソマ師は山小屋を山の中腹に建て、河までバケツをもって水汲みに行く。

何でこんな所に小屋を立たずに河辺に建てれば良いのに、彼等は馬鹿だな、思った事がはずかしくなった。

山師は経験と直感から、豪雨が来て、増水しても激流も届かない所を熟知しているらしく、その僅か上に山小屋たてるのだ。

この仕事は始まっても現金になるまでには,長い時間が係る。山師にそんな多額の資本はない、手付を払って、後は出荷いした材木が金になってから払う、危ない商売である。

だから、山師と呼ばれるのであった。

そんな時は『素封家』(地方の名門で地元の為には出費を厭わない者)と呼ばれた山主が何かと面倒を見たが、何しろ、ダンプもブルザーもない時代、土砂を運ぶのはモッコで担ぐか、簡易レールを敷いてトロッコがあれば最高の時代であった。

その時襲った台風は県道の橋まで流失、一年近く復旧できなった、大事件であった。

父はその後始末で、日常の商い等は残った家族に任せっぱなしであった。

★生の大事決心の日

この時期、彼の生涯を決した二つの事件があった。

台風の被害は一家の生活にも甚大な変化を及ぼした。

一家の生活は母の営業と僕等(弟)が学校から帰ってからの配達するくらいでは食っていけない。

高校は休みがち、担任の先生に事情を聴かれるが、父の仕事が台風の被害で大変なんで、家の仕事は僕が手伝わなくっては!?

商売の詳細、家族構成、父の年齢を聞き、『君が家を出て学校の寮に入れ、寮費は学校の給仕(OLという言葉当時なく、雑用をする少年を給仕とよんでいた)をすれば賄える。

学費は奨学金を申請すれば、君の成績な心配はない、と家に来て母と話す。

「この子には有難い話ですが、私ひとりでは下の三人の弟、妹を食わせて行けない。父の復帰も見込みの立たない今、下の兄弟が義務教育の不就学児童なってしまう」、ので、泣き出し、「お前、どうする?」である。

「一も二もなく学校は辞めて働き、家業を続けます」。で、一決。

★そんな大事件はどこ吹く風と仕事に励んでいた。

そんなある日、僕は店内の整理や配達の準備の為に店内で働いていた。

そこに税務調査員がきた。生憎父は不在だ。

高校二年生だった僕は、問われるままに商いの概要を説明していた。 ここ数年の経験で父はソロバン勘定の苦手の父は、事情を説明すれば何とかなりそうだ。だが、説明するのが難しいので、税務調査を逃げているな、と感じた。

替わって僕が積極的に税務署員の質問に応じた。

二~三度不在が続き、僕の回答で要領を掴んだ税務署署員が、

「君の名で申告したら?」、

「僕、学生ですよ、来年から大学に行くのですよ!」。

「学生控除を使えるから丁度いいよ、」

「親父は?」

「扶養家族で仕事を手伝えば専従者控除もできる」。

「そうしなさい、」。 件の署員は一人で納得して帰って行った。

帰った父に件の話をする」。

「お前が戸主で、俺が扶養家族か?専従者控除で仕事を手伝う、面白い、それが好いで即決」。

そんな事で、高校二年生で17歳の子供が戸主(事業主)として、税務申告をして実業家への第一歩を出したのである。

17歳で事業主として営業を始めたが、17歳の少年には解らぬ事ばかりである。 

そこで僕が取った方法は、何でも問題を提供した相手に聞く、であった。

経費の処理は税務署員に、「これはどの勘定科目に入れるんですか?」。

「仕入れ先に買掛金の支払い期日を延ばすには、『手形を切って欲しい』との言われると、手形が何だか知ら知らない僕は、「手形って何?どうすれば造れるの?」と、怖いもなしで何でも聞いた。

「銀行を尋ね、ああしろ、こうしろ」、と、手取り、足取りで教えてくれた。

こうして銀行取引と、借入金の方法も覚えた。

事業に必要なだけの仕事を、仕事を通して覚える。

正に『オンザ・ジョブ』である。

父は経理にも商売の実務にも疎く、あまり教えて貰った覚えはないが、高邁な理想主義は親譲りである。

まだ、高校生で坊主頭の少年が、前垂れを掛けて働く姿が可愛かったのか、回りの人達も親切の教えてくれた。だが、世間には無知な若造を騙して儲ける悪人が多い事も知った。

しかし、同じ人として産まれた時から、もって産まれた宿命のように、努力だけでは如何とも為しがたい能力と運命に違いがある。 

ここに17歳で一家を代表し、税務申告をした、類稀(たぐいまれな)な人生の苦楽を、身をもって体験し、自分の人生観を確立した男の人生を紹介である。

教育勅語の12の徳目

★12の徳目
1.父母ニ孝ニ(親に孝行を尽くしましょう)
2.兄弟ニ友ニ(兄弟・姉妹は仲良くしましょう)
3.夫婦相和シ(夫婦は互いに分を守り仲睦まじくしましょう)
4.朋友相信シ(友だちはお互いに信じ合いましょう)
5.恭儉己レヲ持シ(自分の言動を慎みましょう)
6.博愛衆ニ及ホシ(広く全ての人に慈愛の手を差し伸べましょう)
7.學ヲ修メ業ヲ習ヒ(勉学に励み職業を身につけましょう)
8.以テ智能ヲ啓發シ(知識を養い才能を伸ばしましょう)
9.德器ヲ成就シ(人格の向上に努めましょう)
10.進テ公益ヲ廣メ世務ヲ開キ(広く世の人々や社会のためになる仕事に励みましょう)
11.常ニ國憲ヲ重シ國法ニ遵ヒ(法令を守り国の秩序に遵いましょう)
12.一旦緩急アレハ義勇公ニ奉シ以テ天壤無窮ノ皇運ヲ扶翼スヘシ
(国に危機が迫ったなら国のため力を尽くし、それにより永遠の皇国を支えましょう)