優遇され過ぎた農政

優遇し過ぎた農政

私は昭和8年9月19日生まれで、幼少時代を戦時中に過ごした。

国民学校時代の思い出は、「腹が減って空腹に耐える思い出ばかりである」。

生長しても米が豊作か、不作かが気になった。 そんな世代である。

八幡工場に工場を作る 

結婚しても、家内は仕事には一切、口を出さないが、やはり相当の変化が出てきた。

家内の実家も、豊永の一族も、戦争で没落した事では同じであり、金銭面ではお互い貧乏であった。

★どちらも、生活は、貧乏であっても心は豊かであった。貧乏の苦しかった事は、それも又、良い経験をしたと、楽しい思い出に変えてしまった。常に明日を考える前向きな性格であった。

★ところが全然違うのは、私は、戦争で知らない土地に来て、東京の家は空襲で焼かれ、帰る所も無く、知らぬ土地に住み着いたのである。戦後の混乱、交通事情では、東京は気軽に行ける所ではなかった。

十数年会わない親戚は顔も忘れる頃に成っていた。つまり血縁は無い、知らない町で商売を始めた。地縁も無い、学校も前述ように卒業していない。『血縁、地縁、学歴』は何も無い、『故郷』(フルサト)も無いに等しい。

★家内の故郷で、自分の故郷が出来たようなものだった。家内が薫陶を受けた一柳満喜子和先生の所に結婚の挨拶に行ったが、その時に何を話したかは忘れてしまったが、結構世話になった。

★資本が少なくても出来る仕事には梱包作業がある。資材を持たず、手間だけの請負作業であった。その為に作業員の数が必要である。 

調べて貰うと、家内の実家である篠原から近江八幡付近は京都から大阪まで通勤している人がかなりいる。

★しかし、それは駅の近くの人で、通勤に便利な場所の話の事で少し離れた農村地帯では中々仕事は見つからない。 

しかも稲作農家は田植え、収穫時は一月づつ『農繁期休暇』が必要だった。それでも、当時の滋賀県は、麦、菜種油などの裏作は、輸入品に押され殆ど作付けはしていなかった。

流石(さすが)に米作だけ、半年の農業だけで生計は成り立たず、何か副業が必要であった。 

★そのうえ、当時は未だ、京都と滋賀県では賃金はかなりの開きがあり、しかも、作業員としての能力は優秀であった。

私達、夫婦が結婚する時、仲人の村田先生と一緒に、何かと世話をやいてくれた、同じ近江兄弟社学園の山田先生と岳父の中島甚之助が、二人で何かと人集めの協力をしてくれた。  

それを、ライトバンと小型バスで京都迄運んだのである。

暫く続けていたが、五人で一緒に通勤するのは、何かと問題も多く、時間と経費も係り仕事を八幡に持ってきては如何か?と云う事に成って来た。

その頃、当社の様に小資本の会社は、藁工品やダンボール等のメジャーな市場は避け、マイナーな市場を狙い、緩衝材のセロメンや、発泡ポリエチレンの加工を自宅の土間で細々と加工していた。

★これは、島津製作所等の振動を嫌う精密機械を、輸送するのに絶対に必要な資材で、これの使用は好評だった。

この加工を八幡へ持って行くメリット、デメリットの調査した結果、次の結論に達した。

緩衝材の加工は広い工場が必要であるが、この広い工場の手配が可能で、しかも費用は絶対的に安い。

人件費は京都よりかなり安い、農繁期休暇があるが年一0ヶ月を操業することで解決できる。

製品を運ぶ運賃が要るが、京都、八幡共に自社設備なので夜間の輸送ができる。これも、役員の労働強化ですむ。等、メリットが多いと判断し実行に移す事にした。

★幸いに、工場の場所は、八幡山の麓に『トキワ館』と云う映画館が廃業した跡の建物が見つかった。

機械の搬入を済ませ、作業員の募集に掛かった。『農繁期休暇』があるのが効いて、作業員は順調に集まった。仕事を始めて判った事だが、滋賀県の、農家の女性の働きぶりは見事なものだった。

★男子・七と、女子・三位の構成比率で考えていたのに逆で、男子・三で、女性・七の構成で工場は運営された。後に、八幡工場は豊永運輸倉の庫発展に大きく寄与した。

農村地帯に工場を建てる。

★あれは昭和50年頃だったか、弊社も高度成長の波に乗り、滋賀県・竜王町に工場を造った。

穀倉地帯の町と言うより、田圃の中の村で長閑な田園風景が残る地帯であった。

まだ地価は都市部の十分の一、人件費も都市部より三~四割は安く、当然我々もそれを求めての進出である。

★賃金が安いはずで田植え時期は農繁期休暇が一か月、稲刈時期も一か月の休暇である。

そこで弊社は一年十ヶ月操業を組んで工場運営をした。 

当然弊社は源泉徴収義務者である。給与には源泉徴収をしなければならない。

農外収入という魔物

驚いた事に彼等は農協を通して、農外収入として、農協経由で些かの税金を払う。

だから、だから、源泉徴収を辞めて欲しいと言うのだ。

詳しく事情を聴くと、耕作地一反に付、10俵が規定で、農外収入もそれに応じて幾ばくかを納めるのだ、と言う。 

源泉徴収を拒む農協

彼等は、弊社で貰う賃金は、農協を通して、農外所得で適当に申告しますので源泉徴収はしないでくれ、と頼むのだ。 

★ 弊社は当然『源泉徴収義務社』である。この要求は受け入れる訳には行かない。 

これでは源泉徴収義務者である弊社の経理処理ができない、と地域の税務署に相談に行くと、「朝来て働いて五時に帰ってゆく、住所は分らない」。 

『申告するなら住所不明』にしてくれ、」との返事に驚きを隠せなかった。 

★ 弊社は何度も京都の税務署と相談に通って、「源泉徴収をすれば、社員は散ってしまう。それでは事業継続が不可能になってしまう」。との説明に困惑した顔で、税務署員は、

「仕方ない、地域の習慣なら、向こうの税務署に連絡はさし控えます」。であった。

農協は税務署に対して押す横車

★この横車とも言える、農協主導の免税処置が農民に、根本的な合理化意欲の失せたのである。

★工場を始めた頃の農繁期は、春、秋の二カ月は休む。だが、暫く経つと、農作業は五月の連休と、有給休暇で済ましてしまう。 正規社員との勤務時間の差は、多少残業が少ないぐらいである。 同時に受け取る給与の差はなくなる。 何度でも言う。この人達の給与、(手取り30万円程と記憶している)、を無税にするという事になる。

この優遇政策が、抜本的な農業の近代化を妨げている。

★ 私は農業に工業の思想で経営すれば合理化ででき、儲かる事業になる、と確信した。

しかし、これには変則な、農協主体の農政の改革(排除)が前提である事も確信した。

米の生産量(石高)が、大名の格を示す、昔の農家は米創りが主体であった。

では、昔(江戸時代)の農家の生活を検討して見たい。

江戸時代の百姓は案外豊かだったのではないか?

★『織田が搗き、豊臣がこねる天下餅、安々と食らうは家康』。こんな戯れ話がある。 

でも、家康だって苦労も努力をしているが、ここでは省く。

織田信長が『兵・農分離』の元祖で、秀吉の刀狩りで、兵、農分離はほぼ固まった。 

★家康が大阪夏の陣で豊臣を滅ぼし、天下を統一し、『士・農・工・商』の身分制度を確立した。 

百姓は身分こそ、支配者の武士に続く身分を得たが、家康の政策は、各地の大名の戦闘部隊の主力の足軽は、農閑期の農民から調達した。

その供給源の農家の力を削ぐために農村を疲弊させせる事を含め、『生かさぬよう、殺さぬよう!』、収穫の半分は年貢の取り立で、百姓の手元には、半分しか残らなかった。 

これでは満腹にならないので水を飲んで凌いだ、と聞く。 

これが『水飲み百姓』の語源だと聞いている。 

★さらに『太閤検地』で『隠し田』は全て白日の下に晒され、収穫の全てが把握され、年貢の取り立てが行われた、聞く。

★こんな話を聞くと、江戸時代は百姓にとっては暗黒時代だった想像する。

しかし、奈良県・御所市の郷土史家、中井陽一氏の博士論文によると、『五公五民』の年貢も、庄屋の陳情に応じた査定の武士により、隠し田(簿外の田)の三割は「お目こぼし」,となった。

実質の年貢は収穫の三割であり『五公五民』の年貢は、その半分の『三公七民』で、百姓の取り分の方が多かったのである。

★これで筆者は納得した。 

春は豊作を祈る春祭り、秋は収穫の恵みに感謝する秋祭りが行われていた。 

神の供えたお供え物の御下がりは、村民の頂く事となり『飲めや、歌絵や』と、大いに楽しんでいる。 

そして、農閑期の御伊勢参りは、伊勢講(積立金)を組んで、集団で一月にも及び、伊勢神宮の門前町には大きな歓楽街もあって、伊勢講の農民は結構楽しんでいたようである。

★伊勢神宮の近在にある遊郭群は、千人の遊女を抱え、江戸の吉原、京都の島原と並ぶ三大遊郭と呼ばれた、と聞く。

 これらを考えれば各種税金に苦しむ、現代の我々より優雅な暮らしでは無かったのか、想像するが、あながち間違いでもなかったような気がする。

一揆の効用

★領主や代官が無理な課税や役務の調達をすれば、ムシロ旗を掲げ、一揆を起こし強訴すれば幕府に聞こえ、『領内の治世宜しからず!』と、領地召し上げや、国替えをされる事を恐れた領主達が穏便に事を済ませようと妥協したので、財政が苦しかったのは寧ろ支配者側の方だった。

★この話の出所の御所市名門の、中井陽一氏は、三井造船の技師で退職後、自家の土蔵に先祖代々残された五百冊に及ぶ古文書を解読した博士論文の一節から借用したものであります。原文は難しく、筆者の能力では読み辛く、中井先生に解説して頂いたものであり、誌上をお礼と感謝の意をさせて頂きます。

優遇され過ぎた近代農家の税政

あれは昭和50年頃だったか、高度成長の波に乗り、弊社も滋賀県・竜王町に工場を造った。 

穀倉地帯の町と言うより、田圃の中の村で長閑な田園風景が残る地帯であった。

その時に農地(タンボ)の買収、埋め立、建築、移転(京都市から滋賀県竜王町への移転続きで農業委員会の許可を貰う種々の手続きに手古摺った経験から、農政の不備を指摘させて貰う。 

当時既に米の生産は充分であったが、まだ米の統制は有効であった。

その頃に農政の改革が絶対に必要だ。

農家に成り損なう

この件で農協の若い職員数人と仲良くなった。ある日、数人のメンバーが揃い、雑談した事がある。

★当時は、田植え機は開発中で未だ無い。コンバインは、まだ実用化されていない。バインダーと呼ばれる稲刈り機だけは普及していた。でも価格は高く全部の農家が持っている訳ではなかった。

それを持った農家は農繁期休暇がみじかかった。それで、私は、

★「うちの会社に農家の人が二~三0名いる」そこで、

「会社でバインダーを一台買って交代で使わせると、農繁期が短くて済む。会社も助かる」。

そんな計画が立てられないか?と相談をした。その中の一人の職員が・・・・・

★「面白い事をいう人だ、貴方みたいな人が農協に入ると良いのだが、農協に入る気が有りませんか?」

「君達は、何も知らないのだな~」。

「俺は、農家でない、農協に入れる訳が無い」。

「日本では勝手に米を作って農家だと言えば、食管法違反で警察に捕まる」。

「俺、そんなの嫌だ、日本には、職業の自由など無いよ!」。

「運送屋でも免許がいる、勝手に出来ないんだよ!」。と言うと、

「何にも、知らないのは豊永さん、貴方ですよ!」。

彼はいう話はこういう事だ。地元で、

★「田畑の五反付きの家」を買い、そこへ住所を移せば農協の会員になれる。それで米造りが出来ると教えてくれた。

「そんな売り家があるのか?」。

「スーパー・マーケットで売っている訳では無いけど、アチコチ声を掛けて置けば売りたい人も出て来る、時間を掛け捜す事だ」。

それでは頼む。という事で話しは終わり、忘れていた。一年くらいたったと思う、ある日、畑が一反付いた古家が売りに出たのでどうか?言ってきた。

★「一反では農家になれないのでは無いか?」

「馬鹿だな、君は!足りない分は俺の田んぼを小作させてやる!」。

「俺に、田んぼ小作など出来ないよ!」。

「そんな事誰がお前にさすか!もう黙っていろ!家に付いた畑も俺達で管理してやる」。

「最近は不在地主が煩いから、その手配をする事だ」。その対策は始めからから考えていた。

★私が、住所を竜王町に移し、家内の実家の両親と住む。近隣との付き合いは、岳父甚之助が滋賀県の人で、人望のある人だから心配はない。地域の共同作業は充分務めてくれる。娘の婿は京都に勤めに出ている。これで、準備完了と、手続きに入った。田舎の事で暇がかかっている、こちらも急ぐ事ではない。

運の悪い事に、岳父はその時『胃癌』に犯されていた。

かなり進行は早く、その年、六八歳の生涯を閉じた。その死は、『余りにも早く、あっけなく、』一家は嘆き、哀しむ内に、この話は流れてしまった。

★米の生産に工業生産の手法を用いれば面白いと痛感した。 

だが、当時は高度成長期で弊社も日常の業務が多忙を極め、余分な事をしている暇がなく忘れていた。

期が熟した

★それが最近と言っても5年前(2009年9月号)のWEDGEに「育ち始めた農業のプロ」を読んで手を叩き、喜びたい衝動に駆られた。

以後、続々と農政批判の記事が続いた。 

例えば、2014年1月20日の産経新聞のコラム正論、「正攻法で農業改革に当たれ」、同じく3月4日の「TPPの死はアベノミックスの死」で屋山太郎氏.日経新聞1912年9月30日の「そして大潟村が残った」が論じている。 

これ等の記事は、的を射た記事で、数字も調べてあって著者に敬意を表したい。

(これらの論文は私のパソコンのデーターに、全文保存してあるので読み漏らした方が、読みたいと思う方は何時でも送らせて貰いますので、御一報願いたい。

貴重な資料でもあります)。

その内の例えば、2014年1月20日の「TPPの死はアベノミックスの死」で屋山太郎氏.日経新聞1912年9月30日の「そして大潟村が残った」が論じている。 

以上2点を紹介させて頂く。

「国は余計なことをするな!」  

 育ち始めた農業のプロ (WEDGE 2009年9月号の全文)

     

南米ウルガイ、東欧ウクライナで米や大豆の生産を始めた日本人がいる。

海外での生産、販売が軌道に乗れば、収縮の一途を辿る国内市場も広がる余地はある。

「そんな農業経営のプロの成長の目を摘むのが、自給率の向上を唱え、農家保護に固執する農政だ!」

海外展開の促進を装ってはいるが、そこには、金も、知恵も、やる気もない。

それならば、日本農業を背負って立つ農業経営者の邪魔だけは辞めてくれ!

失笑を買う、農政の海外戦略

今年の二月、筆者が発行する月刊誌『農業経営者』の読者とともに、ロシア沿海州を尋ねた。

新潟から空路一時間半のウラジオストックから車で3時間。そこには広大な水田地帯が広がっている。

★緯度は稚内と同じ北緯45℃だが、夏の日照に恵まれたコメ栽培の適地である。

中国の黒龍江省と国境で隔てられたハンカ湖周辺である。

★我々は、そこで日本人の農業経営者たちが、日本の良食味品種を、田植えが要らない乾田直播という低コスト技術でコメ作りに取り組むことを目指している。

(Madebai・in・Jpaniese)で、市場はアジアである。

ロシア人女性と結婚し、沿海州に役8000ヘクタールの農地を持ち、そこで大豆やコーンの生産をするニュージ~ランド人経営の農場を日本商社の紹介で知った。

★その農場では約4000hrの水田も所有しており、そこで経営実験に取り組むべく話を進めて行くのだ。

ところが、同農場が韓国のヒュンダイ財閥に買収され、我々の計画は頓挫してしまった。

大豆、コーンの調達のため日本商社が同農場に出資をする交渉を進めたが、韓国側は日本より桁違いの好条件を提示し、農場を買収してしまった。

★我々も諦めたわけではないが。アフリカのマダガスカルへの進出など、海外の農業生産に国を挙げて取り組んでいる韓国と、わが国の意気込み違いを痛感させる体験だった。

また、昨年の三月には中東ドバイを訪ねた。

七つ星ホテルを自称するバ~ジェル・アル・アラブを含め、同地の卸業者やスーパーマーケット、レストランなどに読者農家の農産物を売り込むためである。

しかし、そこでも日本国政府の農業海外展開への戦略性のなさを目の当たりにした。

読者農家の一部も出展した湾岸地域最大の食品展示会「Gulfood」。

★しかし、農林水産省肝いりの、同展日本館の展示の情けなさ。

日本より遥かに大規模で出展していた中国館や韓国館では、自国の農産物が適正な工程管理の下に生産された事を示すGAP( )認証の産物であることを明確にしているのに、対して、日本館は相も替わらず、桜、富士山、芸者である。

そして、もうひとつはUAEを代表する高級スーパーの「スピニーズ」に日本の農水省が設けている常設コーナーのことだ。

スピニーズのバイヤーはこう話していた。

★「日本の食料品の,品質の高さは解る、でも、我々は棚代を貰っているから問題はないが、日本産の農産物が高いという事を宣伝しているようなものだ」。

フランス産、米国産、中国産などのリンゴがキロ175円~200円であるのに対して、日本産はなんと4000円。いかに高級品とはいえ法外だ。

★地元の客は「中に金でも入っているのか?」と笑っていた。

農水省は舐められた、と言うより、高い税金を使って日本の農産物のマーケティングに水を差しているようである。

 

世界五位の農業国が輸出しない理由

昨年、農水省、政治家たちが声高に叫ぶ輸出促進は、戦略的なマーティングとは程遠い。それは日本農業の海外進出のためというより、彼らが輸出促進に取り組んでいることを示す、あくまで日本国内向けの宣伝に過ぎない、と思えてしまう。

わが国農政は、国内農業の保護を優先するあまり、世界の趨勢からは完全に立ち遅れている。

★しかも、海外の日本食ブームという日本農業にとってのビジネスチャンスにもかかわらず、その農業政策で自ら海外展開への障壁を作っている。

農水省の発表によれば、2009年に日本から輸出された農産物(林産、水産物を除く)は2883億円。04年の2038億円からすれば確かに延びている。

しかし、FATの統計で世界と比較すると、05年の日本の輸出額は19億ドルに過ぎない。

それに対して、英国は216億ドル、ドイツ425億ドル、米国の653億ドルなどと桁違いの金額である。

★1965年には、日本、英国、ドイツの輸出額に大きな差はなかった。

しかし、70年代からは各国は輸出比率を高め、15年までには英国は20倍(200ドル増し)ドイツは実に70倍(420億ドル増し)も増やしている。

★それに対して我が国は、40年間横ばいといってもよい状態にある。

現在、農水は農林物輸出を「平成25年までに1兆円規模を目指す」と言うものの、その半分は水産物が占める数字だ。ドイツ、英国のレベルには遥かに及ばない。

★我が国の農業生産額は05年で885億ドル。我が国の農業生産額は先進国中で第二位、世界では第五位であり、ドイツ、英国の4倍以上もある。

にもかかわらずこの輸出額なのである。

★その理由は、経済成長下にあって恵まれた国内マーケットと778%という高額関税によって守られた高額米価によって支えられてきたことにある。

今後、欧米諸国以上の勢い以上の勢いで進行している高齢化は、急速に国内農産物マーケットを縮小させていくことになる。

★しかし、敗北主義を捨てて、輸出や海外生産に取り組めば、世界マーケットで必要とされる存在になることが可能である。

海外生産に乗り出す農家が現れた

「農業経営者」では、十年近く前から、コメをはじめすする和食向け日本食材や、独自の技術を果樹園イチゴの等の海外での生産と、マーケットの開拓を呼びかけてきた。

(“Maido in jyapan””Meid ba jyapn”)である。

読者ともどもに、オーストラリア、ウルガイ、中国、ドバイ、ロシア沿海州などの“適地”に調査を行い、既に一部の読者農家は海外に農場を持ち始めている。

★カルフォルニヤ在住で「田牧米」のブランドを立ち上げた福島の稲作農家田牧一郎氏は、ウルガイで現地の農家に指導を行いながら日本米の生産に取り組みはじめており、今年から販売を始める計画だ。

ウクライナで大豆作りを始めた青森県の木村慎一郎氏は、日本に輸出することを想定し、今や同国農業関係者注目の的である。

また、千葉県の木内博一氏が率いる和郷園という農業組合法人で生産される,バナナやマンゴーがドールのバナナや現地の他のマンゴーより遥かに高い価格で取引されるようになっている。

まさにジャパン・プッレミアムである。

それだけではない。既に農業にビジネスチャンスを見出せる農業経営力のある農業経営者は育っており、さらに農家数は減っても経営者として農業に取り組む才覚を持つ若者が増えている。

経営者自らの努力と彼等に呼応する企業の取り組みにより、国内農業も、輸出も、海外農業生産もやがて大きく成長するだろう。

海外マーケットに関しては、日本のフードビジネスが海外進出に意欲的になっていることが追い風になる。

食材は食文化とともにあるものだからだ。やがて、海外で作った日本品種がカルホルニヤを凌駕する時代がくる。

そして、世界的なコメ市場の中では極めて小さな存在でしかない日本米は、海外でMede・bi・jyapanizuに取り組めば世界の人々に認識されるようになり、高価な国内産もマーケットを広げるだろう。

過保護政策が導く国家と農業の衰退

こうした我々の活動に対し農業関係者の多くは、つい最近まで冷ややかであり、「お前たちは海外産地で,低コストで造って日本農業を危なくさせる気か?」と凄む人もいた。

そんな,日本の農業関係者の精神的鎖国状態は我が国の農政そのものに原因している。

★筆者はかねて「農業問題とは農業関係者問題」。あるいは「農業関係者の居場所作りのために創設される農業問題」であると言って来た。

そして、彼等の主張は、貧しい農民や農家の存在を前提としてきた。

国家が農業を管理する計画経済型、あるいは途上国型の農業政策を続けることである。

★EUあるいは英国で80年代にそれまでの過度の農政保護政策を止めたのも、供給過剰が常態化する先進国において、過剰保護政策が国家経済の負担になるばかりでなく、農業そのものの衰退に繋がることを理解したからである。

★しかし、日本の米価を高値に維持させる手段としてコメに対する高い関税の維持や生産調整を続けている。

そんな政策が続けるのは正に「農業問題とは農業関係者問題」であるからなのだ。生産調整で米価を維持すると言ったところで、米価は大多数の農家に家計にとってはほとんど意味を持たない。

稲作農家の大多数を占める高齢稲作農家の生産規模は50―70アールに程度である。

当然、収支は大赤字、でも、それらの人は稲作の収入で生計を立てているわけではない。

★普通のサラリーマンである息子や孫の収入に依存している。

収穫してコメの少なからざる部分を親類縁者にお裾分けすることを楽しみにしている。

★同時に、現在、農協の組合員は約920万戸、その中の半分は実際に耕作を行はず農協に出資するだけの準会員である。

★一方、農業生産者の中で、販売額が一千万円を超える者は約十四万戸、農協組合員の1.5%の過ぎない。

農林族の政治家を操る農協組織にすれば、98.5%の組合員の利害を優先させるのは当然だ。事業的農家が農業生産額の過半を供給にも関わらず、彼等の利害や日本の農業など関心外だ。農業団体や農家自身が農業の産業化を阻んでいるのである。

自給率向上より輸出促進に取り組め!

「農家の高齢化」、あるいは「担い手不足」。など言われているが、欧米と比べ日本の農家数はまだまだ多すぎる。

★政策転換にはこれまでの無策のために過度的な混乱も生じ、事業的農家にとっても困難が伴う・対象を限定したセーフティネットで切り抜けるしかない。

しかし、前述のように経済力のある農業経営者や農業に取り組む才覚を持つ若者が育ってきており、彼等の呼応する企業の取り組みによって、国内農業も輸出も海外農業生産も、やがて大きく成長するだろう。

また、諸外国と比べて検疫体制の未成熟な我が国の輸出においても不利な条件に置かれている。

正に戦略的な行政施策が必要だ。フードビジネスとの連携、輸入国を納得させる検疫体制の整備など、農水省は欧米諸国と同様の戦略的な輸出促進に取り組むべきである。

しかし、現実は、日本農業の成長にとっては害毒にしかならず、どの先進国も政策指標とはしていない。

“食料自給率向上”を農業政策の基幹にし、そのために三千億の円もの予算が使われているのに対し、輸出振興予算は二十億に過ぎない。

しかも、その運用が戦略的でない。現在の農業政策は、農水省に省益確保、農業団体の居場所としてしか機能していない。

さらに、自民党から共産党にいたるまでの政治家は選挙目当てにしか農業を語らない。

しかし、我々が先進国の人間であるならば、民の力で未来を創ることに取り組むべきでないだろうか。  完)

続いて「日本の場当たり農政の一例

(日経新聞の記事を転載させて貰う)。

★そして大潟村が残った。  

政府は1961年、戦後農政の憲法といわれる農業基本法を制定した。目指したのは海外のように大規模で機械を使った効率的な農業だ。 琵琶湖に次ぐ広大な八郎潟を干拓して誕生した秋田県の大潟村はその象徴だ。

               

★9月下旬、大潟村は収穫期を迎えていた。 見渡す限り続く広大な田園風景は、農地の狭さに悩む日本のものとは思われない。人の背丈を超す大型コンバインが遠くで豆粒のように見える。だが新しい農業のモデルとされるこの村の歩みは、国の政策に翻弄された歴史である。

★農業の人口減に注目

78年、まだ若手農家だった酒井徹さんは厳しい表情でコンバインを操縦していた。

刈り取った稲は田圃に捨てた。その光景を見つめる妻のアヤ子は溢れる涙を止める事ができなかった。「苦労して育てたお米を捨てるなんて。」

この年、大潟村は生産調整(減反)を求める国の方針に反し、上限を超えて作付した。

国は農家に配った土地の返還を迫るという強硬姿勢で臨み、農家はやむなく稲を処分した。

村の人々はこれを「青田狩り騒動」と呼んだ。

大潟村は64年に誕生した。 当初は4700戸を入植させる計画だった。だが、開村の3年前に施行された農業基本法を受けて見直され、最終的に600戸弱が入植する事になった。

★その分、各農家への配分面積は当初の計画の約6倍の15ヘクタールに広がった。

基本法は食料不足の解消にほぼ目途が着いた事を踏まえ、農政の新たな柱を立てる為に制定された。

目的は農家の収入を増やし、経営を自立させること。 基本法制定に尽力した元・農林次官・故・小倉武一は著作で「経営規模を拡大し、機械化できるようにする」と説明している。

★そこで着目したのが農業就労人口の減少だった。 工業化による行動成長で働き手が農業から離れる事で、規模を大きくできると読んだ。

大潟村の計画もこうした狙いに沿って見直された。 近くの村の次男や三男を大量に入植させる案を国は退け「精神的にも肉体的にも弾力性のある全国の青年層から優秀な者を選択する」方針に改めた。だが、各地から集まった農家の夢は開村から僅か6年後に挫かれた。 減反の開始だ。

★日本は60年代の半ばに米の自給率を達成したのも束の間、食の洋風化に伴い、逆に米余りが深刻になった。国は70年から本格的に減反に踏み切る。 大潟村の青田狩り騒動はこうした中で起こった。

騒動から30年余。減反への参加を巡り村民が対立するなど混乱の時期を経て、効率的な経営を実現して行った。日本では例外的に広く平らな田圃が強みを発揮した。耕作放棄地はほとんどなく、多くの農家に後継者がいる。

涌井は会社を創って消費者向けに米の販売を始め、安全検査の体制を整えるなどの先進的な経営者として頭角を現した。「中国やインドなどに輸出を計画している。

★地価高騰が壁

これに対し、他の地域では農地集約は進まなかった。 「地価が高騰し、規模拡大が円滑に行かない」。 小倉は70年代の始めごろ、後輩の農水官僚の後輩で次官になる渡辺文雄にこう漏らした。 高度成長は地価高騰を農村にまで波及させた。農家は工場や住宅への転売を期待するようになった。

★基本法は日本の農業を強くすると言う目的を果たす事はできなかった。 その後、農政は幾度も規模拡大を掲げ、その都度弾き返された。 99年には担い手への農地集中を目指す食糧・農業・農村基本法(新基本法)を制定した。 だが、耕地面積は今でも2ヘクタールしかない。 それでも政府は昨年、稲作の大半を20~30ヘクタールにする計画を定めた。

元次官の渡辺氏は「至難の業」と語る。

農林水産省があてにするのは平均で66歳になった農家の引退だ。 高齢化が極に達したころに改革の契機とせざるを得ない程に、追い詰められた農政の現状を示す。

★ばら撒き農政への回帰

日本の農政は国際競争力を強める為、1990年代から担い手に支援を集中させる選別政策を強めた。 だが、2009年に誕生した民主党政権は兼業農家にも広く補助金出す、戸別補償制度を導入し、ばら撒き農政に回帰した。政策の焦点は定まらず、20~30ヘクタールへの大規模化にも暗雲が漂う。  

★弊社は昭和50年代の高度性期に滋賀県竜王町に工場を建設し、当然、従業員は地元に求めた。 面接は当然農作業の終わった、夜でるである。

机の下に隠して置いた一升瓶を取り出し、茶椀酒を酌み交わしながらの話だ、本音が出る。

如何に日本の農家には税政が優遇されていたか、

「2頁の江戸次代の農家の実情を参照ください」。  完)

  ★そこで竜王工場移転で得た経験から、庶民の眼から見た農政の過保護、一般企業より如何に税政で優遇せれていたかを論じて見たい。

まだ地価は都市部の十分の一、人件費も都市部より三~四割は安く、当然我々もそれを求めて争っての進出である。

賃金が安いはずで田植え時期は農繁期休暇が一か月、稲刈時期も一か月の休暇である。

そこで弊社は一年十ヶ月操業を組んで工場運営をした。 

(この為に、10ヶ月は竜王町の労働者を市内に運び、二ヶ月は京都の労働力を竜王町に移動させる、と苦労は絶えなかった)。

源泉徴収さえ拒む農協の横車

当然弊社は源泉徴収義務者である。

支払う給与には源泉徴収をしなければならない。

驚いた事に募集に際して、彼等は農協を通し、農外所得として税金を払う。

だから、だから、源泉徴収を辞めて欲しいと言うのだ。 

それでは弊社の決算業務はできない。

★それは無理だ、と言っても要領を得ない話をのらりくらり繰り返すばかり。

これでは源泉徴収義務者の責任は果たせない、と地域の税務署に相談に行くと、

「朝来て働いて五時に帰ってゆく、住所は分らない。 

『申告するなら住所不明』にしてくれ、」との返事に驚きを隠せなかった。 

弊社は何度も京都の税務署と相談に通って、「源泉徴収をすれば、社員は散ってしまう。それでは事業継続が不可能になってしまう」。との説明に困惑した顔で、税務署員は、

「仕方ない、地域の習慣なら、向こうの税務署に連絡はさし控えます」。であった。

この横車とも言える、農協主導の免税処置が農民の合理化意欲の失せたのである。

内緒に話

★仕事が終わって、机の下に隠しておいた一升瓶を取り出し、彼等と冷酒を茶碗で酌み交わした。 酔いが回ると気を許してか、話に弾みが就いてくる。 

詳しく事情を聴くと、納税は耕作地一反に対し10俵が規定で、農協に出荷し、農協から購入した資材の金額を、米の代金から差し引かれ、弊社から受ける賃金は農外収入もそれに応じて幾ばくかを追加して納めるのだ、と言うのだ。 

★彼等の保有する田んぼは、一町歩(3000坪)から一町歩半(4500坪)である。 

一反(300坪)当たりの収穫は十俵と査定されているので、100~150俵をその年の米価によって農協の講座に振り込まれる。 

農外収入の税金が幾ばくかを差引かれるというのだ。

冷酒を飲みながらの話で嘘はないと思われる。 

収穫の実際は 十三俵だ、つまり3俵、(三割)の余禄である。 

闇米として税外所得で売られているのだ。 

町の商人で言うと、売り上げは、三割を引き、経費は掛かっただけと同じである。 

これが農協の圧力でまかり通っていたのである。

(江戸時代の隠し田、現在の少な目のする収穫、この余録の小銭が根本的合理化を妨げているのだ)。

★昔のひとは偉かった

筆者は日本の農政の悪口ばかり言ってきた。 

しかし、我々の先祖は、現在でも考慮しなければならない問題にも取り組んでいた。

江戸時の地主は広くもない農地を、かなり遠くに飛び地として所有、耕作していた。

これを耕作するのに、自動車もない時代である。朝は朝星の内に家を出て、夜星を見ながら帰宅する。

歩くしか交通機関の無い時代、かなりの負担だった、と推察する。 

でも、これには大きな思惑があってのことだ。 

また、御所市の中井陽一氏の博士論文を引用させて頂く。簡単ではあるが非常に重要な事である。

この飛び地は全て水源が異なるのである。

「旱魃(カンバツ)や気候変動を避け、水源地が異なるのである。」

これは現在の我等から見て素晴らしい事である。 

後世に引きつがねば重要な遺産である。 

私の知人で齢80歳を超えた男の、農業法人に挑戦する話を紹介する。

私の昔馴染で薄板を加工し、ラック、机、棚、棚板、から自働倉庫へ、と発展した製造メーカーがある。

そこが工場を拡張が続けて、大阪府泉北郡忠岡町新浜の本社、及び向上が、が手狭となって、福島県石川郡平田村に広大な土地を求め、工場を移転した。

★創業社は私と同年代の81歳である。 この年代の特徴で働き詰めの人生であった。

70後半で癌を患ったが、健康な体に強靭の意志を持ったお蔭で一命は取り止めた。

ふたりの御子息が家業の金属工業を継ぎ、兄が社長、弟が専務で業績は発展する。

一般的には『功成り、名を上げて男として楽隠居』するの普通である。

しかし、彼、新井氏は日本の祭優先課題である、農業の近代化を、を試み、農業法人を新設、農業の近代化に挑戦するのだ。

★一時は上場も検討に上ったが、創業者一家と創業時から勤務する者、中心のフアミリー企業への道を選んだ。

これには私も同感で、万雷の拍手を送る。悪戯に上場して企業を公器にする事は投資家を喜ばすだけで、授業員の為にも、顧客の為にもならない。

病を機会に会長となって実務は御子息に譲った。 現役を引退、時間が出来た。

福島の工場は山地を切り開き、土地は山あり谷ありで周辺は広大な山地である。

ここの緑化を兼ねて、果物の木を植える。 

5ヘクタールの地域の休耕田を借り、創った米と、果実の直販する、と聞いたので、その一翼を担わんと、馳せ参じたしだいである。

★我が社(豊永運輸倉庫)も、昭和50年頃だったか、滋賀県の竜王町に工場を新設した。

この時、私も農業に近代工業の手法を取り入れたら、日本には、アメリカのような広大な農地はない。しかし、日本の平野は小さいが連綿とした山岳に囲まれている。

即ち、山地に降り注ぐ雨は河川、地下水となって下流の平野を潤す。

さらに日本の気候は四季があり、日本の農業も世界初めての、狭隘地の農業ができる、と確信した。

ここに企業経営では『千軍万馬の老将・新井正準氏』が登場し農業法人を創設した事を祝いたい。 及ばずながら、痩せ馬に、錆槍一本を持って、先陣に馳せ参じたい。